推しのATMになりたい日常

推敲しない女です。

仮面ライダードライブについて交々――いつかまたひとっ走り付き合うよ

初めて、仮面ライダーというものを、特撮というものを、追いかけた一年でした。
正直に申し上げますと、見てない回もあるし、映画も見れてないし、イベントも飛天とファイナルしか行けていないので、特撮ガチ勢からすると「追いかけたって言わねーんだよそれは!」とお叱りの言葉を受けてしまいそうですが、それでも私にとっては本当に新しい体験でした。

今まで私にとって特撮は、私にとってテニミュが昔そうであったのと同じように、少し距離のある遠い沼でした。
毎週日曜日の早朝決まった時刻にテレビをつけ、イベントにも足繁く通うファンの熱に気圧され、まあ私には縁のないコンテンツだろうなあと他人事のように思っておりました。

そんな私が特撮に触れるきっかけになったのが稲葉友くん。
デビュー作「クローンベイビー」で初めて出会った彼と、中屋敷演出作品「露出狂」や「飛龍伝」で再会し、間宮くん周辺の役者さんたちとの仲睦まじい様子を微笑ましく眺めつつ、「クロードと一緒に」でがつんと強い力で惹きつけられ、「フランダースの負け犬」でその役者としての魅力を知った矢先の出演。
私が箱推しして止まないアミューズ事務所の松島庄汰くんの出演もあって、ついに私はこの沼に足を踏み入れることとなりました。

「えっ?稲葉くんがライダー?嘘でしょ?」と、今まで観てきた舞台作品とのギャップに困惑と驚きで戸惑いつつ、ツイッターで「ドライブ観ます」と宣言したら「来年の秋にあるファイナルだけは、絶対に観に行った方がいいよ!」と周りの方々が親切に教えてくださいまして……こうしてこの日を迎えたのであります。

作品の話は、色々と見切れていない今、まだできる気がしないのですが、とにもかくにも本当にキャストの皆様の成長を感じた一年でした。
特に竹内涼真くん。飛天の時、竹内くんが泣いてしまった時「ああこの子は噂のファイナルでどうなってしまうのだろう」と思いましたが、今日彼が流した涙はしっかりと成長した主演のそれでした。
一話ではまだスーツに着られていた彼が、経験豊富なキャスト陣に支えられていた彼が、舞台の真ん中でキャストみんなに声をかける様にとても胸を打たれました。
ひとりひとりにそうして感謝しながら、彼らの期待に恥じぬように一年間必死で食らいついてきたのだろう彼は、表情からして一年前とはまるで違っていた。かっこ悪いところも情けないところもいっぱいあっただろうけれど、ドライブというヒーローは、今となってはもう君しか考えられないよ。

最後の挨拶で一番最初に堪え切れなくなった稲葉くん。今まで踏んできた場数が多いからこそ、そしてそのポジションだからこそ、負っていた責任や想いも大きかったんじゃないかなあと考えてしまうけれど、そして「斜に構えてしまう」彼だからこその悩みもあっただろうけど、彼がいなくてはこのチームはまとまらなかった。最初は稲葉くんがこんな風に泣き崩れるほどこの作品に思い入れができるようになるなんて、思ってなかったよ、本当に勝手にそう思ってたよ。
そして、個性の強すぎるキャラクターで最後までその役まわりに徹していた庄汰さん。居酒屋庄汰でのぬるぬるっとしたトークの印象が強かった彼ですが(笑)、私はドライブを通じてアミューズという箱にいるときには気付けなかった彼の魅力を知ることができました。きっと真面目で、人一倍周りを気にしてる。こんな人だったんだなあ、と数年間彼を見ていたのに今更のように思いました。
ドライブという作品に出会うきっかけをくれた、二人に感謝です。

そして、飽き性な私がこうして追いかけ続けられたのは、ツイッターの力が大きいと思います。
彼らの何気ないやりとりや写真が、少しずつ親密さを増していくとともに、チームの絆が深まっていく様が見えるのはとても楽しかった。作り手が見えるものが売れる時代に慣れた私には、やっぱり作品をつくりあげている彼らの表情が見えることが、一番安心に繋がるのかもしれないなあと思ったりもします。


昼公演の時に、竹内くんが客席の子供に「君がハタチになって、俺が40歳くらいになっても、進ノ介って呼んで」と、「約束ね」と優しく呼びかけました。
ドライブを観ていたすべての子供たちにとって、竹内くんはいつまでもヒーローであり続けてくれる。それってすごいことだなあと思います。
竹内涼真という役者にとっては、この役も、彼がこれから先に演じていく多くの役のひとつであって、彼はこの先今の彼が想像もしないほどのかけがえのない役に出会うかもしれない。
けれどもそう言って子供たちに「約束」ができるくらいに、そして子供たちにとってそうであるように、大切で特別な存在として、泊進ノ介という男のことが彼の胸に深く刻まれたのだなと思うと幸福感でいっぱいになります。
私の大切な作品に対して、彼も同じように思ってくれている。どんな言葉よりも、私はその「約束」が心に沁みました。

今後また彼の、彼らの作品に出会うことがあったら、そのときは彼らが全力疾走で駆け抜けていくその傍らを共に走りたいです。だから、そのときはまた、ひとっ走り付き合わせてね。


とりとめなく、推敲もせず、勢いで書いてしまいましたが、素晴らしい作品とキャストと、共に過ごせた一年間。本当に幸せでした、ありがとう。

そして本日、私は私自身が蕨野さんに落ちる音を聞きました。推します。推しが今日もまた増えました。
お後がよろしいようで。

『クロードと一緒に』2014年版感想ツイまとめ

ふと思い立って自分用のメモに、2014年版の『クロードと一緒に』両キャストの感想ツイをまとめておきます。

―――――
2014年5月18日(日) 22:20
青山円形劇場「クロードと一緒に」稲葉伊達回・相馬伊藤回、立て続けに観た!稲葉イーヴは大小の爆発の連なり、相馬イーヴは波のような激しい強弱だった。感情の表現から、イーヴという役の精神の成熟度というか若さというか年齢差というか、を感じました。感想をぽつりぽつりと呟いていきます。

2014年5月18日(日) 22:23
【18稲葉伊達】マスコミが追い払われた後。沈黙。刑事を見つめるイーヴの瞳に、ゆっくりと浮かび上がってくる涙。それが溢れるのが先だったのか、彼の中ですべてが弾けるのが先だったのか、あの瞬間から始まったイーヴの告白を、息をするのも忘れそうになるくらい全身で聞いた。 #クロードと一緒に

2014年5月18日(日) 22:24
【18稲葉伊達】イーヴの姿が滲んでぼやけて全く別の誰かに見える瞬間が度々あった。誰かは分からない、誰でもない、誰か。彼の感情が空間を支配して、その全身が大きくなったり小さくなったりした。すべてを話し終えてしまうと彼は本当に空っぽになってしまったのだと分かった。 #クロードと一緒に

2014年5月18日(日) 22:26
【18稲葉伊達】肉の内側をひっくり返してみても血液さえ絞り取れない気がした。カーテンコール、同じ表情でイーヴが出てきた時、胸が苦しくなって、もう観たくないのにずっと観ていたくて、早く彼が稲葉氏に戻ってほしいと思うのに、ずっとイーヴでいるのではないかとも思った。 #クロードと一緒に

0214年5月18日(日) 22:39
【18相馬伊藤】同じシーン、イーヴがどういう表情を浮かべればいいのか分からなくなってしまったように頬を震わせるのが見えた。そこを涙が伝い、唇に溜まってキラキラ光っていた。それまでの彼は何かを取り繕うような、目を逸らしているような、虚勢を張るともまた違う、 #クロードと一緒に

2014年5月18日(日) 22:40
【18相馬伊藤】そういう態度だったのがふと解けて、水面の上でほぐれて広がって、波のように揺らめくのが見えた。彼の独白には稲葉イーヴのものとは違う脈絡があった。言葉の脈絡じゃなくて感情の脈絡。目から体の内側に彼の想いがすうと入り込んできて侵食していくようだった。 #クロードと一緒に

2014年5月18日(日) 22:42
【18相馬伊藤】部屋のドアが叩かれイーヴと刑事は無言で見つめ合う。しばらくしてふっとイーヴの口元が解ける。まるで糸が切れたように。それから彼は部屋を出る。カーテンコール、イーヴは速記者に腕を引かれて出てくる。自分の足で立っているのもやっとというほどに力ない。 #クロードと一緒に

2014年5月18日(日) 22:45
稲葉イーヴは一気に力を使い果たしたように空っぽになり、相馬イーヴはじわじわと体を蝕まれて終息したような、そんな風に見えた。感情の表現の仕方もそう。 #クロードと一緒に

2014年5月18日(日) 22:46
感情表現の点と線の違いが、そのままイーヴの役の成熟度や若さに思えた。稲葉イーヴは若い。冒頭から怯えて強がってみせる子供のよう。クロードのことをまるで聖者かなにかのように盲目に慕っている。彼とクロードとの行為はまるで神聖な儀式か何かのようにも聞こえた。個人的に。 #クロードと一緒に

2014年5月18日(日) 22:49
相馬イーヴは、稲葉イーヴより大人びていて、すべてを諦めていながら、クロードのことだけは胸の奥深くにしまいこんでいるような気がした。等身大の男として、彼を愛しているようだった。彼らはもっと生々しい行為をするんだろうと思った。個人的に。 #クロードと一緒に

2014年5月18日(日) 22:50
相馬イーヴが語るクロードは、それくらいの歳の男がするように、普通にイーヴを騙していたりもするだろうと思った。個人的に。 #クロードと一緒に

2014年5月18日(日) 22:50
あ、そっか。稲葉イーヴは少年で、相馬イーヴは女だったのかな。それに近いかな。いや。うーん。 #クロードと一緒に
2014年5月18日(日) 22:51
――――

松田凌くんの2015年版を観られなかったのが本当に心残り。

『クロードと一緒に』という作品は、役者にとって、とても苛酷なものなのだろうと思う。人によっては、それからの役者人生ががらりと変わってしまうほどに。
私は当時この作品を観たときに、キャラクターの感情だけでなく、それを演じる役者のすべてが目の前に曝け出されているように感じた。
具体的な彼らの性格や人生というよりも、その役者の根本が、役者という人間そのものが、私の目に見えたように思った。彼がどういう風に怒り、悲しみ、笑い、愛するのか。この作品はすべてを暴き出してしまう。

でも、だからこそ、私はその「生々しさ」に強く惹きつけられ、いまでも度々思い出すんだろう。観ている時の疲労感はすごかった。でも、それだけの物を観てしまったという満足感が確かにあった。

余談ですがイーヴをぜひ演じてほしい推しは、安西くんと間宮くん。ふたりがイーヴという人物をどう生きるのか非常に興味がある。
生成も、かな。観てみたいというより、この作品を通じて彼がどう変わるのかを見てみたい。(賀来)賢人と原嶋くんは、ちょっとだけこわいかもしれないな。でもそうやって妄想してる時点で、多分かり観てみたいと思ってるんだろうけど。

『武士白虎〜もののふ白き虎』雑感――懺悔と赦しの物語

※白虎が一部白狐になっていたので直しました!恥ずかしい!

『武士白虎〜もののふ白き虎〜』観ました。
東京では二回しか観劇できなかったのですが、大阪に備えて簡単に感想をまとめておこうと思います。
ネタバレあり、セリフはすべて曖昧なので多分間違ってます。大目にみてください。


まるで、貞吉が赦されるために、そのためだけに、作られたような作品だったと思いました。
白虎隊の今まで描かれなかった一面を描く青春群像劇とどこかで聞いた気がしていたけれど、彼らの激動の青春を語ったというよりも、ただひたすら貞吉の懺悔と赦しの物語だった。

全編のほとんどが貞吉の回想で進みます。
だから貞吉の目に彼らがどう映ったのかは分かるんだけど、貞吉という人物はまったく見えない。
回想では、悌次郎はじめ、隊のみんなが貞吉に一目を置いている。けれどもそれが何故なのかはわからない。「落ちこぼれの星」って台詞で初めて、あっ貞吉って落ちこぼれなんだ??って気付くぐらい。
彼の夢は、好きなものは、嫌いなものは、得意なことや苦手なことはなんなんだろう。なんでみんなは貞吉のことを、そうして認めているんだろう。悌次郎が貞吉を白虎を背負う者として選んだ理由は何だったのだろう。
貞吉の姿にだけ、もやがかかってはっきりと見えない。
私には、彼の姿が「意図的に」その過去から消されているかのようにさえ映った。

語り部が真実を語るとは限らない。彼が真実を隠し、曖昧にするとき、そこには彼の明確な意図や強い想いがあると思う。
この回想の目的は、過去の事実を正確に伝えることではない。貞吉の、心に蟠る問いの答えを探すための回想なのだ。
作中で、斎藤一が「おまえは何を持ってるんだ」と問う。「俺は」と答えようとした貞吉の言葉は、回想に呑まれていく。
でも「俺は」の先に続く言葉を、そのとき貞吉は持っていたんだろうか。
少なくとも、貞吉の回想から彼の目線で過去を覗いていた私には言葉の続きを紡ぐことができない。
どうして俺だけが残されてしまったのか。他のみんなの方がこんなにも優れているのに、悌次郎の方がこんなにも相応しいのに。それを描くための回想だったんじゃないかと思う。

どうして、なぜ、他の誰でもなく、俺が。
そういう想いを抱きながら生き残った貞吉に、斎藤は悌次郎の言葉を託した。
白虎隊の旗は、貞吉に。彼こそが、虎の心を持つものだから、と。憧れて、嫉妬していたのは悌次郎の方だ、と。
そう聞かされてから、彼は悌次郎と最後に交わした言葉を思い出す。自刃しようとした貞吉を、悌次郎が止めるシーンだ。
「おまえが残れ」、「それがみんなの想いだ」、当時はきっとその言葉さえも「どうして、なぜ」と思いながらも聞いていたのかもしれない。けれども、斎藤の言葉を聞いた貞吉は、その言葉にこめられた本当の想いを理解する。
貞吉は、間違いなく、選ばれた。白き虎の仲間たちに、彼らの心を伝える者として。
何年か越しに受け取った想いに、貞吉は泣き崩れる。生き残って、生きていて、よかったのだ。そのとき、彼は初めてそう思ったに違いない。

観客としては、というか私としては、貞吉が誰よりも虎の心を持っていたと言われたって、それが作中どこにも語られていないのだから正直あまりぴんとこない。貞吉の目から見た他の子達だって、それぞれ虎の精神を持っていたと思うし、それに貞吉が勝る根拠なんてなにもない。

だけど、貞吉が本当に生き残るに値する人物だったのかなんて、さして重要じゃないんだろう。この物語の真髄は、そこじゃない。
白き虎の精神を持った彼らに、貞吉がいままで語ってきた彼らに、認められたこと。憧れてやまなかった男に認められたこと。貞吉が、囚われていた過去に赦されたこと。
それが一番大切なことであり、この作品のオチなのだと思う。

淡々と、寂しそうに、懐かしげに、過去を振り返っていた若者が、ようやく自分の足で歩んでいく様を描いた物語。
それが、私にとっての「もののふ白き虎」という作品だった。

最後、貞吉は白虎の仲間たちの回想の中に笑顔で加わっていく。
それは、「どうして」「なぜ」に囚われ続けていた過去には決して叶わなかったことなのかもしれない。彼らと肩を並べながらも、どこか不安や疑問や嫉妬を抱いていたのかもしれない。けれども、過去に赦しを得た貞吉は、ようやく彼らの隣で心から笑顔になれた。
それは、回想の形を取りながらも、貞吉のこれからの未来を予感させるような明るく眩い光景だったと思っている。


こうして語ってきたけれど、私はこの物語の語り部が、安西慎太郎だったからこそこうしてこの物語を受け止めることができたんじゃないかと思っている。彼だったからこそ、単なる歴史物じゃないと捉えることができたのだと思う。
安西くんのお芝居を見ていると、私はいつも蝋燭の炎を思い出す。揺らめき、強くなり弱くなり、蝋を滴らせながら、必死に燃えるその姿。彼は作品ごとに、ひとりの人生を生々しく生きている。
安西くんが演じる貞吉に、この物語を通じて、赦しが与えられて本当によかった。
彼の人生は、この作品の外にまでずっと続いていく。
過去に赦された彼は、真っ直ぐに前を見て、この作品から歩き始めたばかりなのだ。きっと。

RENT雑感――平間壮一はただの天使でした。

観てきました!RENT!
すっごくよかった!ので、今日は考察抜きにして、とりとめもなく感想を書き留めてみたいと思います。

私が見たキャストはこちら↓

★9月29日(土)ソワレ
≪日替わりキャスト≫
ロジャー ユナク
ミミ ジェニファー
コリンズ 加藤潤一
エンジェル 平間壮一
モーリーン ソニン

シアタークリエに入ったのは三年ぶり。最後は2012年のRENTの千秋楽でした。最推しである賀来賢人が主演ということで、足繁く通った思い出の場所です。
今回は、アミューズの加藤さんと壮一くんが出るということもあり、そのキャストに合わせて観劇しました。

本当に素晴らしかった。2012年版は、推しが出ているということでどこか冷静にも客観的にもなれず(もちろん心から楽しんでいましたが、推しが出る作品を見る時はやっぱり彼に偏って観てしまうので、どうにも全体を見渡す余裕が持てません。)観ていたので、三年越しに改めて、この作品の純粋な素晴らしさを知ることができたように思います。

とりあえず何から語ればいいのか分からないので、キャスト別に書いてから全体のことを話そうと思います。
2012年との比較もあります、ご了承ください。

▼マーク 村井良大
賀来賢人とは全く違うマークでした。
賢人のマークは、RENTという作品の外側から「物語」を眺めている、まさに作品の「傍観者」という印象。ストーリーテラーとしての語りやコミカルさは、どちらかというと(いい意味での)無個性の象徴のようで、2012年私は彼のことばかり注目していたのに、それを思い出そうとするほど、その傍らに別のキャラクターがいたことを思い出します。
「作品・物語」そのものに居場所がない、マーク自身の個性や歴史や物語が見つからない、ただ「作品」に押し流されるしかない、そんな焦燥感や寂寞感を感じました。作品の語り部の孤独を、彼は表現していたように思います。
村井くんのマークは、賢人のときよりももっと「物語」の内側にいたように感じました。彼のマークには個性があり、歴史があり、物語がある。けれども、彼が立ち入ることのできない「場所」が存在する。
ロジャーたちとは、友達でありながらカメラのレンズを通してしか関わることができない。キャラクターの人間関係における孤独が、見えたような気がします。
「Without You」の「あなたがいないなら、私はいない」という歌詞のとき、一人明かりに照らされたマークを見つめながら、彼にとってのそういう存在がこの物語の中には存在しないのだということに胸が締め付けられました。
表情豊かで、周りに取り残される焦りと寂しさを感じながらも、時折茶目っ気を見せる彼は、ニューヨークの若者の等身大の姿でした。
初めて村井くんの生のお芝居を観たのですが、3列目という近さだったので、その表情をはっきりとみることができました。
眉毛をくいと上げる様、視線の動き、躊躇うように宙を掻く指先。そのすべてにマークの物語があった。
とっても素敵な役者だなあと思いました。一瞬で好きになったよ!


▼ロジャー ユナク
▼ミミ ジェニファー
ユナクのロジャーには、中村倫也のロジャーの系譜を感じる、と聞いていたのですが、実際観てみると確かに!と感じました。
でも方向性としては似たものがあれど、人生や人間というものを諦めたような弱さを持った中村ロジャーと、もう少し幼くて、何かに触れられるのを恐れるような心の弱さを持ったユナクロジャーという印象の違いがあったように思います。
女性の母性本能をくすぐるような寂しさを秘めた、ハリネズミのような弱さ。っていうんですかね。
それを、ジェニファーのミミが抱き締めるという構図!すばらしい!
ジェニファーは、前回観たよりも更にセクシーで、パワフルで、エネルギッシュでした!
物語に出てくる19歳の少女というと何となく、もっと可憐で、儚げで、か弱いイメージを持ってしまいがちですが、実際の19歳は彼女のようにエネルギーに満ち溢れているんですよね。けれども、その陽に当たる部分の裏側に、弱い部分を持っている。
母は強し、という言葉をジェニファーを見ていると思い出すのですが、ユナクも超新星の母親ポジションと聞き、ロジャーとミミってママ会なんだな……とふと思ってしまったのは秘密です。
ちなみに私が思い描く19歳の少女としてのミミの姿は、ジュリアンのロジャーに対するとき見えたような気がしています。


▼モーリーン ソニン
▼ジョアンヌ 宮本美季
▼ベニー Spi
とにかくよかった!!!!!より過激に魅力的にパワーアップしたソニンと、それに負けない宮本さんの伸びやかな歌唱力!ソニンの奔放さが増した分、ジョアンヌの堅物さもより浮き彫りになっていて、それなのに惹かれあってしまうふたりの可愛さたるや。「Take Me Or Leave Me」最高でした!!!
そして、Spiのベニー。キャストに合わせて演じ分けているのだろうキャラクターの前回とは別の一面が見えたような気がしました。マークやロジャーと同じ志を持ち、それを自分なりに形にしようとしているのに、うまく分かり合えないその不器用さが非常に愛おしかったです!


▼コリンズ 加藤潤一
▼エンジェル 平間壮一
このふたりの回を観れて、本当によかったです。
加藤さんの舞台は劇プレの公演と前回のRENT、壮一くんの舞台はアミューズの公演・双牙・ロミジュリ・アルカードしか観たことがなかったのですが(といいつつ結構観てました……)このふたりの今まで知らなかった魅力を見られたような気がします。
一幕の「I’ll Cover You」で、ふたりきり舞台上で歌う様子に謎の感動を覚えました。アミューズ箱推ししててよかった!!!!!!!
加藤さんのコリンズは、2012年に観たときより声の伸びも響きも格段によく、それに演技力が加わって、更に素敵に進化していました。コリンズの優しさや、弱さ、温かさが詰まった愛が、まっすぐにエンジェルへと注がれていて、もう本当に幸せになってくれ!!と心から願うばかりでした。
プライズ、すっごくよかった…!エンジェルへの感謝と愛情に溢れていました。2012年のときから、この曲が終わった後にロジャーがコリンズの背に手を添えながらはけていくのが好きです。

そして、壮一くんのエンジェル。天使、の一言。素晴らしかった。
何から何までキャラクターそのもののルークのエンジェルやドラァグクイーンが内に秘める人間らしさを持ったロウマさんのエンジェルとも違うけれど、少女のような愛らしさや母親のような優しさで溢れていました。無邪気にコリンズへと抱きついたり、愛おしげにそっと触れたり、その仕草が本当に天使そのもの。言いすぎじゃないと思います。「I’ll Cover You」で、手すりに指を滑らせてコリンズへ手を伸ばすのがとっても愛おしくて、切なかったなあ。
そして「Contact」で鍛え上げられた肉体が露わになり、病に翻弄されながらも抗い生きようとする姿には、人間の生命力そのものを見た気がします。
「Take Me Or Leave Me」で、最初コリンズに抱きしめられながらふたりの様子を見て笑っていた彼が、曲の終わりに近付くにつれ次第に表情に影を宿していったのが印象的でした。

加藤潤一と平間壮一って本当にすごい役者なんだな、もっと彼らのコリンズとエンジェルを観たかった。一幕を3回ぐらい繰り返し観て心づもりをしてから、心して二幕に挑みたい、そんな気持ちです。



今回、初めて客観的に作品を観て、海外の作品独特?の面白さを感じたのが、彼らの親の存在でした。
二幕最後の「Voice Mail」。ロジャーの母親、ミミの母親、ジョアンヌの父親、マークの母親が出てきます。
日本での若者たちに焦点を当てた作品において、印象的に描かれる親の存在は、その多くがキャラクターへの抑圧や制限、コンプレックスへと結びついているように思います。また親が登場することでキャラクターに途端生活の匂いがしはじめるようにも感じます。個人的にです。男のキャラクターの母親が出てくると、あっマザコンかな?と思ってしまうあの感じです。
もちろん彼らも人間なので、親がいることは間違いないのですが、それが登場するだけで私はそのことに深い意味を感じてしまいます。
けれどもこの作品には、親という存在がさらりと、しかし印象的に描かれています。でも、それがキャラクターへの抑圧や制限、コンプレックスへと繋がっているようには見えない。親の存在は、あくまでも他のサブキャラクターと同列に語られます。
幼い頃より親から自立した個人として子どもを育てるアメリカと、家族の中心が子どもになる日本。アメリカと日本の親子関係の違いを、そこで改めて感じました。
いまの時代、日本にもアメリカ的な教育方針の家庭も多いと思いますが、日本の過去の物語を観れば日本的な家庭を想定したもののほうがまだずっと多いですし、私もそういう作品を観て育っています。親が子の抑制や制限やコンプレックスの象徴と感じるのも日本で育った自分だからこそなのだなと、自分の価値観を改めて知る機会になったのも、今回客観的に作品を観られたからなのだなあと思うと嬉しい限りです。

とにもかくにも素晴らしい作品だったRENT!
全日完売との噂を聞きますが、叶うならもう一度観に行きたいです。
二幕最初の「Seasons Of Love」で涙が零れ落ちそうなほど目を潤ませていた壮一エンジェルが、ラストで嬉しそうに加藤コリンズに寄り添う姿が、帰宅した今でもはっきりと目に浮かびます。
本当に素晴らしい観劇体験でした。

最後に。
アミューズの平間壮一くんはただの天使です。

柿喰う客『天邪鬼』を観て――イマジネーションを武装しろ

※ネタバレありの推敲なし野郎です


私が好きな演出のひとつに「劇場の壁が取り払われ現実へと物語が続いていくエンディング」というのがある。なんか簡潔な呼び方があるんでしょうかね、これ。
私は今回『天邪鬼』を観ながら、その演出と同じようなものを感じた。まあ、要するに好きって話なんだけども。
私が観たことのある中から例を挙げると、ベッド&メイキングスの野外劇『南の島に雪が降る地下空港『タガタリススムの、的、な。』*1のラスト。私が特に好きな作品の中のふたつだ。
この演出の何に私は惹かれているのか、まずはふたつの共通点から考えてみた。

①非日常的に作り込まれた劇場

『南の島に〜』テント小屋。芝の上に築かれた階段式の座席の上やビニールシートの上に座る。内容としてはノンフィクションだが、いまと時代が異なるという意味での非日常性と、雨や土の匂い・虫や風の声や気配が隣にある環境での観劇という意味での非日常性に貫かれた劇場空間。
『タガタリ〜』舞台が観客をぐるりと取り囲むようにあり、更にその四角の内側にまるで食堂のテーブルのように列を成して舞台の板が並ぶ。その間に、観客が向かい合ったり背を向けあったりして座る構造。舞台の中に客席がある。劇場の中央には真っ黒に焦げたような塊が開演前から釣り下がっており、演者・スタッフみな赤い衣装をまとっている。観客はそこに足を踏み入れた途端、その世界に取り込まれていく。
⇒世界観の確固たる空間だからこそ、そこに風穴が開けられた時も、芝居は現実に呑まれず、寧ろ現実を芝居が呑み込んでいく


②演者=観られる/観客=観る にとどまらない

『南の島に〜』作品のストーリー展開として。戦時中南の島に劇場を作るという筋のため、演者の中でも「観る」側と「観られる」側に分かれる。「観る」側の演者が観客に混じって「観る」だけでなく、舞台の上に舞台が作られ、「観られる」演者と「観る」演者・観客の関係が生まれ、演者と観客の境界が曖昧になる。
『タガタリ〜』劇場の構造として。観客の周りを、間を演者が駆け巡り、観客の真上で、或いは観客に混じって会話をする。観客が座る位置によって観えるものが変わり、自ら観ようとしなければ観えないものもある。また劇中登場するビデオカメラで写した映像がスクリーンに映し出される際は、演者もまた観る側になることも。物理的に演者と観客の境界が曖昧になる。
⇒舞台と客席の境界が明確でないからこそ、その世界が現実(劇場の外)へと通じた時に(劇場内にいるすべての人の意識が劇場の外へと向き)観客は自然に演者と同じ位置へ立たされる






※補足*2

少し本筋からズレるが、①を考えた時に、私は蜷川幸雄演出の『ハムレット』や『ロミオ&ジュリエット』(2014年版)のラストの演出を思い出す。
ロミジュリは、キャピュレット家とモンタギュー家がロミオとジュリエットの死により和解をせんとしたところで、第三勢力である少年(劇中で両家からイジメを受けていた)が両家のみならずそこにいた神父や警察もろともマシンガンで殺戮するという衝撃のラストで幕を閉じる。
これは9.11以降に氏が『ハムレット』に追加した演出と同じらしい。

 蜷川幸雄の4度目のヴァージョンとなる「ハムレット」のエンデイングは、公演3日目の16日から変更された(というこの事実を知ったのは、9月27日付日本経済新聞の夕刊の記事によってである)。
≪中略≫
 蜷川幸雄はそのことについて、「芝居が現実に負けてしまう」と思って、テロとも、報復とも解釈できる殺戮の場面を新に付け加えたという。
 月並みな言葉で言えば「事実は小説よりも奇なり」で、芝居は現実の前では時に無力である。

高木登 観劇日記-2001-

このブログの「芝居が現実に負けてしまう」という発言のソース元をきちんと読めていないので何とも、なのだけれど。
これは「芝居の中に現実を取り込む」演出だと思うので、①の「芝居が現実を呑み込む」演出とは異なるが、どちらも虚構と現実の境界を超える・虚構をもって現実に挑む試みという意味では同じものを感じる。


……と、まあその話は置いておいて。
とにかく『天邪鬼』は『南の島に〜』や『タガタリ〜』と同じ構造だと感じたという話だった。

『天邪鬼』の開演前、主演の玉置玲央さんが「お話させていただきたいと彼が申しておりますので」と切り出し、劇団の代表であり演出家であり劇作家であり今作の演者である中屋敷法仁さんがジョークを交えながら「携帯電話の電源をお切りくださいませ」と客席に促す。
ここまでは、どの劇場でもよく見られる光景である。しかしそのアナウンスのあと玉置さんは「携帯電話の電源はお切りくださらなくて結構です」と繰り返す。携帯電話の着信音やバイブで芝居が妨げられてもそれは「仕方のないこと。定め。ディスティニー。」だから、と。
この作品の劇場のつくりは至ってシンプルで、舞台があり、その上に舞台装置があり、それと向かい合う形で客席がある。『南の島に〜』や『タガタリ〜』と比べればごく一般的な構造だ。
だが、どこにでもある日常的な言葉――「携帯電話の電源はお切りくださいませ」というアナウンスを、玉置さんの「携帯電話の電源はお切りくださらなくて結構です」という非日常的な言葉によって否定されて、観客は「彼らの言葉のどちらがホンモノなのか」とつい考えてしまう。日常が「日常を疑う」という非日常の中に呑み込まれていく。
更に彼はそこに「来る者、拒まず、去る者、追わず。ここは、そういう場所なのだ」という言葉を重ねて、扉に錠をし、空間を閉鎖する。(途中出入りをご自由に、と言われるほど、それを咎められている気分になるのは私だけではないだろうから。)
そうして彼らは「①非日常的に作り込まれた劇場」をその一瞬のうちに作り上げてしまった。

そして、さらに玉置さん演じるアマノジュンヤはこう続ける。自分は「信用に足る存在ではないのだ」、「作者本人も」彼の言葉に「明らかなる虚偽の内容や矛盾が」あることを認めている、と。
この台詞は、単にこのキャラクターが嘘つきな人物であるということを言っているだけではない。
私たちにとって、いや私にとって「演劇を観る」という行為は「演者を信じる」ことから始まる。彼が、目の前にある木組みのセットを見ながら「大きな山だ」と言えば、私の目にはそのセットが山に見える。テニスのラケットを振れば、私の目にはその先に弾むボールが見える。
限られた空間でそこにない何か信じること、芝居という嘘に進んで騙されること。それは演劇における演者と観客……いや、演者と私の間で、作品を楽しむために、ほとんど意識しないうちに敷かれた不文律のようなものだと思う。

しかし、冒頭のこの言葉で、「彼の芝居には嘘がある」と作者から明言される。演者と観客の間での暗黙の了解が、彼ら自らの手で陽の目に晒される。
もしかしたら、彼が「山だ」と言ったセットは山ではなく川かもしれない。ラケットを振りかぶってボールを打っているのではなく、人を殴り殺したのかもしれない。「芝居」に「嘘」が含まれるとはそういうことなんじゃないだろうか。
「②演者=観られる/観客=観る にとどまらない」
演者の言葉を信じられなくなったとき、観客は何を信じればいいのか。何を信じて、何を「観る」のか。選択を迫られる。演者は寧ろその選択を舞台上からじいと「観ている」のだ。

そうして非日常的に作り上げられた、演者と観客の境界の曖昧な劇場で、物語のラストにアマノは「拍手は、どうかご容赦ください」と言う。

拍手は、どうかご容赦ください。
それは、すなわち閉幕の合図。
現実という限りある世界へ
我らを誘う呪いの儀式。

柿喰う客『天邪鬼』上演台本より

しかしそんな彼の言葉を遮り、ショウジは僕は「狼少年」だからと、今まで語ってきた物語そのものを「虚言」だと覆してしまう。
呆気に取られる観客を置き去りにしたまま、演者が舞台上に揃い、静かに頭を下げる。私たちは慌てていつも通りの拍手をおくる。けれどもアマノは劇場にこだまする拍手に耳を塞ぎ、お辞儀もせぬままよろよろと舞台から去っていく。
客席の照明が上がり、劇場のドアが開け放たれ、観客がざわめき出す。けれどもカーテンコールという、非日常から日常へと戻るための儀式は終わっていない。まだアマノは芝居をやめていないのだ。
劇場を後にする観客とともに、非日常は日常へと溢れ出していく。アマノの物語が、劇場の外へと続いていく。
まさに、私が好きな「劇場の壁が取り払われ現実へと物語が続いていくエンディング」だった。*3


このエンディングが組み込まれるとき、私はその作品に作者の強い意志と想いを感じる。一方的にだけどね。
この『天邪鬼』という作品には、どんな意志とどんな想いが込められていたのか。多分、それを何と捉えるかは人によって異なるのだろう。柿喰う客の作品には、観る人によってまったく別のものに映るという陽炎のようなところがある。

少し戻るが、「観客が演者に『信じるな』と言われたとき何を信じるのか」という話は、アフタートークで中屋敷さんが少し触れていた。
「そう言われたお客様が役者を信じるのか、信じないのか。それを試したいという作為的な想いがあった」(意訳)と彼は言っていたが、それはきっと観客それぞれの観劇体験や価値観によって異なるのだろう。

私はといえば、その「信じるな」という言葉も「オオカミ少年」のショウジの言葉も信じなかった。
私は、劇中で折り重ねられた物語そのものを信じた。演者を信じることで見えてくる世界を信じた。彼らが山だと言ったものを山だと思い、テニスラケットを振るった彼らの先に飛び跳ねるボールを見る。そうして自分の目に見えたものを信じた。
だから私にとっては、イマジネーションを武器に戦う子供たちも、演じることで何にでも姿を変えられるアマノの姿も、オオカミ少年のショウジが暴力を受けていたことも真実だ。
私は「演者を信じる」という前提で芝居を観てきた自分自身を信じていた。そういう形でしか、私は観劇することができない。
私とは異なる観劇体験をしてきた人には、きっと別の作品が見えていたのだろうと思う。ほかのものを信じ、ほかのものを信じなかったかもしれない。
なにを信じることができるのか、なにを信じないのか。それはすべて観客に委ねられている。この作品において、観客は「観る」だけの存在ではないのだから。

……で、何の話だっけ?
そう、『天邪鬼』に込められた意志と想いの話ね。人によってそれが何と思うかはそれぞれだと思う、ということを言いたかったんだった。
そして私は、この作品を見ながら中屋敷さんのインタビューを思い出していた。

中屋敷:演劇界の現実がだんだん明るみになりつつあるんですよね。劇団を維持するために何人動員しなければいけないかとか、俳優が食べるためにどういう仕事をしなきゃいけないかとか。まあ、世の中の人たちがうっすら想像しているとおりの、悲惨な現状です。でも「アーティストはお金がなくてかわいそうですね」で終わるんじゃなく、業界人同士で傷を舐め合うのでもなく、この閉塞した状況をぶっ飛ばすような話をしたい。

「悲惨な演劇の状況をぶっ飛ばしたい」中屋敷法仁インタビュー - 舞台・演劇インタビュー : CINRA.NET

アマノのセリフに「イマジネーションを武装した」という言葉がある。
劇中、子どもたちは「戦争ごっこ」に始まったイマジネーションを武器にして、本物の戦争に身を投じていく。
イマジネーションが、演じるという行為が、誰かを傷つけ、誰かを救い、誰か殺す力を持つ。演じる自分を信じるだけで、イマジネーションはとてつもない力を発揮していく。
私は、この作品に「閉塞した状況をぶっ飛ばしたい」という意志と想いを見た。劇場という限られた空間で行われる演劇が、その閉じた世界から日常へと飛び出して、何かを変えていくかもしれないという希望を見た。現実を芝居で呑み込んでやろうという気概を見た。見たような気がした。
イマジネーションは、時に暴力となり狂気となり猛威を振るう。その力が現実に及ぼすことは決して良いことばかりではない。それは、演劇を愛する観客の喉元へ、鋭く突きつけられる刃のような「現実」である。
でもこの作品を見た私たちは、その力の強さも恐ろしさをそうして知った。全容は捉えきれずとも、そういう側面があることだけは改めて、この身をもって知らされた。
演劇というイマジネーションを目にした観客は、その強さと恐ろしさを知った上で、劇場の外へと、日常へと挑んでいく。時にそれを、それぞれの形で武装することもできる。その虚構の武器を手にした人すべてが、プラスの方向へ向かうとも限らない。けれども、私たちは、確かに、その演劇を見る前とは違った人間になっている。*4


私は、作品が一応の幕を引いた今も、まだどこかからアマノジュンヤの視線を感じている。彼はまだ演じている。何者かになった彼の、何者かの目で、私をどこからかじっと「観ている」ように感じている。彼の作り上げた世界の中で、私がどんなイマジネーションを武装して、現実と戦うのかを彼は「観ている」のだ。彼の世界の「演者」なのか、それとも「鬼」なのか、それを見極めている。

観客として、芝居を「観る」だけではなく、何を信じ、何を「観る」のかを選択する。そして、それを観た私たちはそれぞれに違うものを得て、変わっていく。それを含めた世界のすべてが、現実そのものが、まだこの世界のどこかで演じ続けているアマノにとっての「演劇」なのかもしれない。

というところまで書いて、パンフレットの中屋敷法仁分裂インタビューを読みました。
演出家中屋敷さんの言葉にうんうんなるほどと頷きながら、この話を締めようと思います。


いまはとにかく、ハイキュー‼︎という作品を中屋敷さんがどう作り上げていくのか、そして玉置くんがライチでどんなタミヤを演じるのか、そればかりが楽しみな演劇人生でございます。

*1:私が観たのは2015年再演です。

*2:最初の認識→ 観客が座っている客席=客席(非日常)/ テント=客席と舞台を覆う劇場の壁(内:非日常/外:日常)/ 役者が立つ板の上(板の上にある舞台含む)=舞台(非日常)/ テントの外=劇場の外(日常) テントの壁が取り払われたあと→ 観客が座っている客席=客席(非日常)/ テント=舞台の中の舞台(非日常)/ 役者の立つ板の上(板の上にある舞台含む)=舞台の中の舞台(非日常)/ テントの外=舞台(非日常??)

*3:柿喰う客の作品は「これをもちまして終演でございます」という言葉が繰り返されることできちんと幕が降りる場合が多かった。劇場の外に出るだけで、私たちは一瞬で日常に戻ってくることができた。

*4:中屋敷さんが誰にも見せない前提で書いた作品だと言っていたのも、彼が若い頃にしたためた作品「フランダースの負け犬」に似通ったところがあるからではないだろうかと穿ったりもしている。でも、だからこそ、この作品が「10万人動員宣言」と共に打ち出されたことに私はとても納得している。

ナルステを終えて――『FROGS』の松岡広大が「推しの」松岡広大に変わるとき


ライブ・スペクタクル『NARUTO -ナルト-』のDVD発売記念イベントに行ってまいりました。
今年3月21日、東京・渋谷AiiA theaterで開幕し、福岡、大阪、宮城、東京凱旋、マカオ、マレーシアを経て6月10日シンガポール・リゾートワールドセントーサで幕を閉じた今作品の集大成が、本日8月26日にDVDとして発売されました。(ちなみに会場予約分もHMVアニプレックス分もまだ私は受け取れておりません。)
今回は、その最後のお祭りとも言えるイベントでした。

今日は、そのナルステで初主演を務めた松岡広大くんについて、そしてナルステについて、取り留めもなく書いてみようと思います。
(今回は考察というよりほとんど彼と作品への想いを綴ったどうでもよいお話です。)

広大くんを初めて見たのは、2013年に上演された舞台『FROGS』再始動初演の時。正確に言うと、公演までの間に放送されていたアミューズUstream動画『FROGS-TV』で彼の姿を見たのが最初でした。*1
平埜生成くんが出演するということで、できる限りのチケットを押さえつつ*2、雑誌やUstreamをチェックしていたのがそもそものきっかけです。

『FROGS-TV』でのふわふわとした喋り方、目を離すとふらりとどこかへ行ってしまいそうな捉えどころのなさ、小関くんや溝口くんへの末っ子らしい甘えを孕んだ態度。座組の中で最年少というのも頷けるような振る舞いと、意志の強そうな大きな瞳にギャップを感じつつ、それでも総じて可愛い俳優さんという印象でした。

でも、再始動公演の再演の千秋楽を見届けたあと書き記していたキャストひとりひとりのメモには、彼について私はこう書いていました。

実は一番よく分からない。
天才肌で、自分にも人にも割と厳しい。あと自意識高い。その分自己分析も年の割にかなり出来ている方なイメージ。自分のどこが人に好かれるのか理解してそう。でも実は全部天然だったらどうしよう。
物事の好き嫌いがはっきりしてて、好きなものにはとことんデレデレ。(ex.佐藤健
ダンスはほんとすごいなあと思う。あのちっこい体のどこにあんなパワー隠してるんだろ!

私が公演前に抱いていた印象と、公演で見た彼の姿は、まったく別物でした。彼が演じたアマネの、力強いパフォーマンス、(末っ子っぽさは変わらないけれど)可愛いというより生意気で真っ直ぐな性格。それは、彼の大きな瞳が持つ意志の強さを引き出したかのようでした。
きっと会場中の多くの人が彼の目に、パフォーマンスに、惹きつけられていたと思います。『FROGS』という若者たちの様々な魅力を贅沢に詰め込んだ作品の中で、「まばゆさ」を担っていたのが彼でした。

ちなみに初代『FROGS』はDVDで観ています。その時は自分の中にうまくはまらなかったのですが、再始動を観て「この作品の本当の素晴らしさは、あの日あの時間にあの公演を共有した人にしか分からないのだ」と感じました。
再始動初演のとき、彼らの行く末はまだ見えないままでした。アミューズに既に所属していた四人はまあ心配せずとも今後お仕事を観せてもらえる機会はあるだろうと思っていましたが、残りの四人に関しては、そのままアミューズに所属するのかも、いまこの時を逃せばいつその姿を見られるのかも、分かりませんでした。
ある種の焦燥感のようなものを抱きつつ、けれどもきっと輝かしいであろう彼らの未来を信じて、その一瞬のきらめきを目に焼き付けようとその作品を必死で見つめていたのを覚えています。
私は初代に出演していたキャストたちが、それからどのような道を歩んでいったのかを今だからこそ知っています。
けれども、きっとその当時作品を見つめていたファンの目には、まだ若い彼らの何にでもなれる・何でもできる可能性に満ち溢れた未来が見えていたのだと思います。それこそ、『FROGS』が伝説と呼ばれるような作品として、観客の胸に刻まれている一つの理由なのかもしれないなと思っています。

……話が逸れました。
「よく分からない子」という広大くんへの印象を抱いたまま舞台『FROGS』を終え、私は「蛙ちゃんたちはみんな推しだよぉぉ;;」と半狂乱になりながら、その後の彼らを追いかけました。
アミューズ所属の四人はもちろん、山下銀次くんと太田将熙くんが所属した劇団プレステージUstreamを息を呑んで見守ったり、小池成くんが所属するダンスユニットのイベントに足を運んだり、三本健介くんのソロライブを観に行ったり*3、当時の彼らの活動はほとんど漏らすところなく見ていたと思います。

その当時の私にとっては、松岡広大くんだけが特別ではなく、『FROGS』の蛙たちみんなが特別でした。テニミュで広大くんが遠山金太郎役に決まった時も、だから嬉しかった。めちゃくちゃ興奮しました。*4
でも「広大くんだから」ではなく「『FROGS』の広大くんだから」、私は追いかけていたのです。

それが「広大くんだから」に変わったのはどうしてだったのか。
それは、安西くんの記事でも書いた「生々しさ」に触れたからでした。彼が演じるキャラクターの「生々しさ」、そして「よく分からない子」だった広大くん自身の「生々しさ」。
特に後者の「生々しさ」――要するに彼自身の人となりに触れたことが、大きなきっかけだったのだと思います。
……はっきりと断言しないのは、自分でもいまいち彼が推しになった瞬間を思い出せないからです。

私がテニミュ四天公演を観たのは2014年になってからだったので、『FROGS』のあとに彼の姿を目にしたのは2013年12月の舞浜アンフィシアターアミューズ事務所年末恒例の若手俳優イベント『SUPERハンサムLIVE 2013』でした。
プライズゲストとして登場した彼を観た瞬間、膝から崩れ落ちそうになるほどの謎の感動に震えました。赤い衣装に身を包んだ彼は、先輩たちに負けないパフォーマンスで観客を魅了しながら、心から楽しそうに舞台上を駆け回っていました。

――これが、松岡広大なんだ。

「よく分からない子」だった彼が、一瞬のうちに、生々しく、私の心の中にすうと入り込んできました。
それが、多分、私が初めて彼自身の「生々しさ」の一端に触れた瞬間だったのだと思います。これがきっかけだったらいいなという、私の願望でもありますが、とにもかくにも四天公演を初めて観た時のツイートでは、もう既に松岡広大が私の推しになっていたのようでした。ドリライを終えた時の気持ち悪いほどの熱狂っぷりがそれを物語っています。

推しが尊いと世界に謝罪し事務所に感謝し始める癖があります。

そして迎えたライブ・スペクタクル『NARUTO -ナルト-』のキャスト情報解禁。
福岡・マカオ・マレーシア公演は都合がつかず行けなかったのですが、幸運な事に東京・大阪・宮城・東京凱旋・シンガポール公演での千秋楽を見届けることができました。*5

公演初日に初めてナルステを観た時は、その演出の奇抜さに度肝を抜かれました。映像や効果音を多用した作りの作品は、まさに「ライブ・スペクタクル」と呼ぶべきステージで、最初「演劇」を観に行くというスタンスで劇場に足を踏み入れた私は「演出が過剰すぎて役者のよさを殺している」と本気で思っておりました。
ところが翌週二度目の観劇で、その印象が驚くほど変わったのです。ナルステは「演劇」ではなく「ライブ・スペクタクル」なのだという前提でナルステを観た途端、その演出も含めた作品がすっと私の中にはまりました。今となっては、もうこの演出あってこその国民的人気作品の舞台化だったのだと思っています。
それでも原作の約半分を2時間半に凝縮したことによる駆け足感は否めませんでしたが、広大くんを始めとするキャスト全員がそれを補っていたように思います。

シンガポール千秋楽を終えて、私は広大くんのナルトについてこう語っていました。



私は、彼の演じるキャラクターに、彼が「生きてきた実感」「彼が生きている実感」――「生々しさ」を感じました。

そしてなにより、ナルステを通じて、私はハンサムライブの時のように、彼自身の「生々しさ」にも触れることができました。
「よく分からない子」だった広大くんの姿が、いまの私には幾分はっきりと見えるようになった気がします。


DVDイベントで広大くんはナルトという役を演るにあたりそのキャラクターのように「稽古場から恥をかいてきた」と話していました。包み隠さず、自分のことを曝け出す。その姿勢を通して、もしかしたら私たちの側にも広大くんの「中身」が見えていたのかもしれないと思います。

初の座長公演、

稽古場に足を踏み入れ、座長として右も左も分からない僕は周りの皆さんがとにかく環境の良い中で伸び伸び演舞出来るようにと、常に周りを見てきました。

キャスト一人一人を見て、その人がどんな方なのか、一挙手一投足見逃さず意識していました。


勿論、上手く行かなかった事もあります。


然し乍ら、試行錯誤してみんなの為に尽くせて僕は本当に幸せでした。

苦悩の先には|松岡広大 オフィシャルブログ「liberal」Powered by Ameba

このブログの「尽くす」という言葉が、私にはなかなか衝撃的でした。
けれども同時に、そうだ、私が2年半見てきた彼はそういう人だったのだ、とその「生々しさ」がより実感を持って迫ってきました。


広大くんが言う「誰にも負けないパフォーマンス」とは、与えられたものを、求められる以上に追及していく、負けず嫌いで妥協を知らない真面目さによって生まれていくのかもしれません。
「誰にも負けない」高みを目指すということは今の自分に決して満足しないということです。今ある自分を出しきりながら、「まだ自分にはできることがある」と考える、どこか仄暗さや危うささえ感じる彼の意志の強い言葉。
けれどもそれこそが、明るい陽に当たった部分だけではない人となりが、私の目に映る彼の「生々しさ」を際立たせ、ますます私は彼に惹かれました。
そして、各キャストの言葉が、私の目に見えている「松岡広大」像をリアルなものとして裏付けてくれます。

一番大変なのに
周りを気にして頑張るナルトと

作品をよくする為に努力し続けて
嘘はつかないサスケくんと

私達が思い詰めているタイミングで
力を抜く場をいつも
作ってくれるカカシ先生

と一緒に頑張る時間が
私にとっては幸せでした(^ ^)

「NARUTO」DVDイベント|伊藤優衣 オフィシャルブログ 「yui blo」 Powered by Ameba

そんでナルト。本当広大は今回よく頑張った。1番近くにいたから何でもわかるし多分広大もオレの事何でもわかる。かな?
稽古の途中くらいから一切話し合いもしてないのに芝居やアクションの動きがピッタリ合致する場面がたくさんあってビックリしっぱなしでした。
本番になると(ダジャレです)更にそれが顕著に表れて、週末の谷のシーンなんてほとんど何も話さなくてもお互いが考える事が手に取るようにわかってしまっていました。

http://amba.to/1QMEFla

三代目火影役の平川和宏さんのブログに、こうあります。

主役である彼の役割は当然
他の誰よりも大きいし重い。
彼の出来の良し悪しが
この芝居を大きく左右する。
それを十分理解している。
その上で彼はチームの力を
強調する。

カンパニーのほぼ最年少にも拘らず、
皆を束ねていくリーダーシップ。
誰よりも真摯に役と向かい合うその姿勢は
カンパニーの雰囲気にも影響を及ぼす。

松岡広大という男|おじ屋

皆が彼の為にひとつになろうと
前のめりに舞台に向かっていく。

何度ものスタンディングオベーション
決してフロックではない。
博多でも大阪でも

「 皆、見て見て
嬉しくって足が震えてる 」

と、君はとても喜んでみせたけど、
それが、スタッフもキャストも皆の力だと
君は思いやってくれたけど、
皆はその中心に君がいることを
ちゃんと知ってるからね

松岡広大という男|おじ屋

この素晴らしい作品の中心には間違いなく広大くんがいました。それは私たちも知っています。
けれども彼は決して驕らない。それも知っています。
『FROGS』のときに私がイメージした「天才肌」は努力に裏打ちされた実力で、「末っ子のような愛らしさ」と同居するのは責任を一手に追う生真面目さで、それが彼の「生々しさ」。それが松岡広大という人の、リアルだった。

私たちが見える役者の姿は、彼らのほんの一部です。それは重々分かっています。
でも、私に見えたほんのわずかな彼の一端に、何偽りないリアルを感じたからこそ、そしてそこを信じられたからこそ、私は推しとして彼のことがもっと大好きになったのだと思います。


……こうして推しのことを考えていると、私はつくづく「人間」というものが好きなのだなと思います。観劇に通うのは「人間」を見に行っているのだなあと。

そう考えると、シンガポールでの観劇は刺激的でした。
普段2.5次元ミュージカルを観劇に行くとき、知っている漫画原作が少ないということもあって、私は役者をきっかけにしていることがほとんどです。観劇は、ほとんどの場合、私にとって役者という「人間」を観に行く行為です。*6
私以外の観客にも、そういう方が多くいらっしゃるでしょう。
けれども海外での公演は違います。シンガポール公演の観客は、ほとんどが現地の方や原作ファンの方で、役者ファンと思われる日本人は一握りでした。


日本とは違い、劇中にも客席では歓声が飛び交っていました。コスプレ姿の方も多く見かけました。100%キャラクターとして見られる海外での公演は、日本とはまた違ったプレッシャーや緊張感をもたらしていたと思います。その中で、キャストの皆さんは、そして広大くんは、キャラクターそのものとして、その「人間」としての姿を私たちが求める以上のクオリティーで見せてくれました。

私はこのカンパニーが大好きです。
そして、このナルステを通じて知ることができた、松岡広大という役者が好きです。


結局、私はこの記事を通して何を書きたかったんでしょうか。広大くんのここが好きだ!って言っておきたかっただけなのかもしれません。
この記事を書くのになぜか三日ほど要してしまいました。

真面目で、責任感が強くて、プロ意識が高くて、負けず嫌いな広大くん。彼が次にどんなパフォーマンスで私を驚かせてくれるのか、そしてどんな彼自身の顔を見せてくれるのか。今から本当に楽しみでなりません。
だからやっぱり役者ヲタクはやめられないのです。

DVDの特典をみたら、また別の感想や印象を受けるかもしれないので、その時は改めて文章を認めようかと思います。


*1:本当に正確に言えば、初めて彼を見たのはドラマ「眠れる森の熟女」です。綺麗な顔立ちの子だなと思って名前や所属も調べていたのですが、「これが松岡広大だ」ときちんと認識した上で彼を見たのは『FROGS』なので、初めてはこちらということにしておきます。

*2:とは言えキャパのためなのか初代FROGSがアミューズオタクの中でも伝説の公演と言われているからなのかチケット取りには苦戦し、初演再演と合わせても一桁ほどしか観に行けなかったのですが。

*3:彼らのイベント会場の客席で、他の観客に負けずノリノリで応援していた蛙たちの姿が見られたのは良い思い出です。泣きました。

*4:金太郎は、当時原作をほとんど読んでいなかった私が、四天宝寺の中で唯一本誌で見ていたキャラクターでした。

*5:またもやお恥ずかしいお話ですが、NARUTOの原作も読んだことがなかったので、今回は事前に電子書籍で一気に全巻読みました。

*6:今年秋より開幕する「ハイキュー‼︎」に関しては役者や脚本の中屋敷さんが好きというのはもちろんですが、数少ない原作が好きな作品なので、違った見え方になるのかもしれません。

推しを推しながら思う6つのあれこれ

初めての投稿が安西くんへの気持ち悪い愛を語った文章だったのでもう今更感がありますが、少し自分のことを話してみようと思います。

どうも改めましてATM野郎です。
まだまだATMと名乗るには未熟者すぎる私ですが、若手俳優とファッションやメイクと文学が好きな女です。
普段はざっくり言うと商品を作るお仕事をしていまして、休日は舞台観劇やショッピングやファッション系・オタク系のイベントに出向いたり、本を読んだりDVDを見たり、部屋を片付けたりなどして過ごしています。

若手俳優においては、まだまだ五六年の歴のしがない新参者です。いわゆるDDと呼ばれる種の人間でして、推しの数が年々増えていくのが目下の悩みでございます。
最近新たに二人も娶ってしまったので、本当に推し増えすぎじゃね??と思うばかりです。
……と、娶るとか嫁とかそういう表記をすることもありますが、ガチ恋勢ではありません。推しは可愛い可愛いと愛でる対象なので、リアルなタイプはまた別のところにあります。
そして推しに認知してほしいファンサしてほしい接触イベ行きたいという欲求もなく、寧ろこんな気持ちの悪い私なんて彼の視界に入らなければいいのに!と最前に入りながら思う種のオタクです。とかなんとか言いつつ接触イベにも結局赴いているのは、推しに金を払う機会があるなら行くしかねえ!というATM精神からですね。
ただ服やオシャレが好きなので、推しに好きな格好をしてほしいという欲求はあって、プレボはまあまあ活用しています。

はてさて自分のことを話すとなると何を書けばいいのかと悩むところですが、とりあえず若手俳優ヲタとして自分の中で思っていることなどをいくつかお話してみようかと思います。


・推しが推しでなくなるとき、その理由は彼ではなく自分にある
推しが推しでなくなるのには、人それぞれ色々な理由があると思います。多分、本当に彼の何かが原因で推せなくなることもあるでしょうし、それは決して悪いことではありません。実際私も今後そういう時が訪れるかもですし。
ただそんな事があっても、砂を掛けて降りるようなことはしたくないとだけは思っています。
つい最近、私は数年追ってきた劇団の観劇に一区切りつける事にしました。思うことは多々あれど、最大の理由はきっと私の中にあると思っています。
私はとにかく飽き性だから(俳優好きが五六年続いているのが奇跡のようなものです)、とか、日々経験し年を重ねる中で私がほしいものと彼らが求めるものが合致しなくなってしまったのかな、とか。必要以上に考えてしまったりして、娯楽だからもっと気軽に楽しめばいいのに重い女です。
でも、砂を掛けて終わりたくないというのは、推しだった彼のためとか今も推しだった人を愛している人のためとかそういうことより、一度は彼を推しだと思ってお金を払っていた自分を否定したくないからなのかもしれません。

・取らぬチケットの後悔より取ったチケットの後悔をする
これは単純に「チケットとればよかったー!」ではなく「行かなきゃよかったー!」と言いたい、という話です。
チケットを取って、実際観劇して、それで後悔したとしても、それを見た時間や経験は確実に自分の中に蓄積されます。たとえマイナスの感情を掻き立てるものでも、自分の財産になる。それを基準にしてより自分が観たいものをより上手く選ぶことができるようになるかもしれないし、必要ないと思っていたその観劇経験がいつか役立つ時がくるかもしれない。
迷ったら行く、を許される限り選択したい。もちろん限られた財力の可能な範囲内で、ですが。

・人に誘われたら時間の都合がつく限り断らない
若手俳優を追っていると先々の予定が早々に決まってしまって、それ以外の予定が入れづらいですよね。
私は基本はコミュ障の出不精なので、観劇の予定が詰まってくると、どうしても友人や先輩の誘いに応えるのが面倒だなあと思ってしまいます。その上、興味のないことに時間やお金を割くのは無意味だと思って、放っておけば仕事と観劇と一人遊びで一年を過ごしてしまうタイプです。
その自覚があるからこそ、あえて人の誘いにはできるだけ応じるようにしています。私はほとんどお酒を飲まないのですが飲みの誘いや合コンも予定が空いてれば断らないし、全く興味のないスポーツ観戦も予定が空いてればお金を払って見に行きます。その時はリアタイしたいドラマがあっても諦めます。
正直面倒くさいし、その暇があるなら推しの情報をツイッターで漁りたい、というのが本音です。でも私が動かない限り、今は興味もない・知らない世界に踏み入れるきっかけをくれるのは、そうやって誘ってくれる人しかいないのです。自分の引き出しはいくらあっても足りないくらいなので、そうして人に頼りながら少しでも増やしていきたい所存です。

・推し事が被ったら、それを逃したらより後悔する方を選ぶ
これだけ推しが多いと、公演やイベントが被ることもままあります。推しの中でも一応優先順位はつけているので基本的にはそれで判断しますが、時にはその優先順位を違えてでも、あるいは推し以外の公演やイベントでも、いつもとは違うものを優先することがあります。
その時の判断基準が「それは一度逃したらもう二度と見られないかもしれないかどうか」です。もちろんどの公演もイベントも、生である限り、二度と見られない事に変わりません。でも「推し」だから、という義務感で観に行くのではなく、「後悔しないために」観に行きたい。
だから推しが一人も出ていないのに、公演期間や題材やキャストによっては、推し事よりも優先して見に行くものもあったりするのです。

・自分にとっての一番が推しにとっての一番とは限らない
色々なところで言っている話なのですが、観ている側の熱量と観られている側の熱量は必ずしも一致せず、そこが一致するということは寧ろ奇跡に近いんじゃないかしらと思っています。
役者さんは日々仕事として色々な舞台やイベントや撮影を行っていて、それ以外でも様々な経験をしていて、私が観られるのはそのほんの一部に過ぎません。私にとっての大切な公演が、彼にとってもそうだとは限らない。
だからこそ、自分が良いと思ったものには、お金を払ったり、アンケートを書いたり、言葉で伝えたり、目に見える形できちんと意思表示をしたい。
その話を知人にしたら「随分謙虚だね」と言われましたが、謙虚というよりは、もし本当にそうだった時、ガッカリしたくないだけなのだと思います。

・自分と世間の評価がズレていたら、それが何故か「知りたい」と思え
ツイッターで評判の良い芝居や、若い子たちが絶賛した作品に、どうにもうまくはまれないことがよくあります。もちろん作品は自分の価値観で捉えていいものだと思うので、だからと言って無理やり評価を変えようだとか、無理やりスタンディングオベーションしたりもしません。
でも、周りと自分の意見が違うとき真っ向から否定するのではなく、なぜそうなのか「知りたい」と思います。自分以外の人が何に感動し、何に心を惹かれたのかを確認することは、自分の価値観が客観的に見て一体どういうものなのかを知る手がかりになります。まあ実際に調べることは少ないですけどね。仕事柄というのももちろんですが、自分がどういう人間なのか私はいくつになっても知りたいのです。


……なんだかんだと取り留めもなく長くなってしまいました。
こうしてみると、私は色々と面倒くさい人間だなあと思わざるをえません。
ただ割とやりたいようにやっているようなので、趣味に対する姿勢としてはまあ悪くないんじゃないかなあと思います。

そんなこんなで明日はナルステDVDイベントに行ってまいります。
東京からシンガポールまで見届けた作品の、本当の最後を、じっくり堪能したいと思います。