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推しのATMになりたい日常

推敲しない女です。

雑記――2.5次元舞台について交々

この記事を読んで、なんとなくぼんやりと思ったことを書き留めておきます。
主観に満ち満ちております。相変わらず推敲はしていません。

本当に、この方が語られている通りだなあと思います。




一部抜粋で恐縮です。

演劇を観るという習慣のない人にとって、5000円であろうが1万円であろうが、2.5次元舞台のチケットは決して安くない。ここで比べられるのは、他の演劇とではなく、他のエンターテイメントだ。様々なエンタメが無料化していく中で、この値段はどう考えても高い。(演劇にその価値がないということではなく、相対的に考えてという意味で)しかも映画とは違い、特定の場所へと足を運ばなければいけないという意味でのハードルも高い。
だから、その高さを乗り越えてでも観に行きたいと思うような、まさに強い動機こそが劇場へと人を呼び寄せているのだと思う。

先日少しツイッターでも触れたように、原作ファンの中には好きな作品が2.5次元舞台化されることに不安や嫌悪感を抱いている人も少なくない。
不安だけど、嫌だけど、でも大好きな作品が関わるなら観に行かずにはいられない。そういうオタク特有のコレクター欲のようなものを擽っているのが、2.5次元舞台だなと思う。……もちろん解禁された情報から期待大で観にいくファンも多くいると思いますが。
つまり、よっぽどビジュアルが忠実とかでない限り、演劇を観たことがない原作ファンに対しての敷居は全然下がっていない。そういうコレクター欲を満たさずにはいられない、ある意味で選ばれしオタクしか劇場へ足を運ばない。
原作を知ってるからちょっと観に行ってみようかな、と思えるような人は、おそらく2.5次元ミュージカルがどんなものかを知っている既存のファンか、あるいは懐が潤っているのどちらかじゃないかなと思う。
オタク以外の一般層については、むしろ二次元原作であることが敷居を高く……というかハードルを高くしているのではないかと思う。マンガ原作ものはオタクが観に行くもの、と私のリア充な友人は言っていたし、同じお金を出すならテレビで見るような役者が出演するシェイクスピアの方がよっぽど行きやすいとのことだった。ちなみに私はオタクであることをリアルの友達にはあまり公言していないので、2.5次元舞台が好きだとは告げたこともない。それはリア充の友人たちにとっては、2.5次元舞台こそオタクを極めに極めた(三次元にはまるで興味がないような)オタクだけが行くものと認識されているからであるけれど、この話はとりあえず置いておく。
……役者やスタッフなどの制作に携わる人たちのファンを除けば、そもそも原作を知っている人にターゲットが絞られるという意味で間口は狭くなっている。

そして、その間口が少しでも広く、より多くのオタクを抱える人気原作の舞台作品が、2.5次元舞台の入り口になる。
そこで役者が好きになったり、あるいは2.5次元舞台というもの自体が好きになったり、演劇というエンタメに抵抗がなくなったりした人たちが、それ以外の2.5次元舞台や演劇へ流れていっているのではないかと思う。
人気の高い作品を舞台化する。限られたオタクが観に行く。役者ファンが生まれる。2.5次元舞台そのもののファン、あるいは肯定者が増える。口コミで先の作品が話題になる。そこでファンに見出された役者が別の2.5次元舞台や演劇に出演する。演劇に抵抗のなくなった人、役者のファンになった人、口コミで興味を持った人などが観に行く。
更にその舞台化が、カンフル剤として人気原作が更に売れるきっかけになるのはもちろんだけれど、その人気作から何かを目当てに流れてきたオタクが次の2.5次元舞台原作の新しいユーザーとなる。コンテンツを保有している原作側としては、放っておいても売れる(もちろん放っておかないだろうけど)原作が更に売れるのはもちろんだけど、過去の作品の掘り起こしができる、既存の作品をもう一度売るきっかけができるという恩恵は大きいと思う。
そして、それがうまく循環するのは、間違いなく「自分の好きなものには高くても金を出す」オタクだからだ。

何が言いたかったかというと、2.5次元舞台の功績は、チケット代や足を運ぶ手間など初めて演劇を観る人にとってのハードルを、オタクをターゲットにすることで越えさせることに成功したことだって、その通りだなあということです。
一度ハードルを越えてしまえば、そこで魅力に気付いてしまえば、そこから先はアニメや漫画が絡まないコンテンツであっても「好き」と作品のヒキが合致する限り足を運ぶ。
オタクって本当に日本の経済回してるなあと思います。私もオタクであることにもう少し誇りを持って生きようとおもいます。
あれ、なんの記事だっけ。

ドリフェスお披露目イベント行ってきました――2.5次元アイドルとは?

ドリフェスのDear Dreamお披露目イベントに行ってきたぞ!
ということで取り留めなく感想というかなんというかをざっくりと綴ります!


◼︎ドリフェスとは
まあ詳しくはこちらを見てくれ!バンダイナムコグループ×アミューズが放つゲーム&アニメ連動プロジェクト青春!!!!!ユニット オーディション開催! | News | Lantis web site
プレスリリース:http://www.bandainamco.co.jp/cgi-bin/releases/index.cgi/file/view/5024?entry_id=4603

アミューズバンダイナムコグループ、ランティスBEAMSと名だたる企業が名を連ねる「2.5次元アイドル応援プロジェクト」。
無料アプリゲームを中央に置いた多次元プロジェクトで、ゲームに登場するキャラクターとキャストが連動して様々なメディアで活動するというもの。
2016年のアプリゲーム配信&ドリフェス!カードの発売に先駆けて、現在キャストによるCDのリリース、WEBラジオの配信が発表されている。
Dear Dreamのキャストは、石原壮馬、溝口琢矢、冨田健太郎、太田将熙、正木郁の5人。


こんな感じで大丈夫でしょうか!

私がドリフェスを初めて知ったのは、アミューズのオーディション記事。*1それが8月頭のことなのでそれから約3ヶ月。ここまで早かった〜!
ツイッターでオーディションの事が騒がれていて、当時アミューズの箱推しオタクが多い私のタイムラインでは『アミューズは何を始めるの??』やら『自分の推しが入ったりしないよね』やら『ハンサムライブがドリフェスになるのか…』やらで湧いていました。
オーディションが終わった翌日9/9に発表されたのが、先述のプレスリリース。そして一ヶ月後にキャスト発表。
まさか劇プレから壮馬くんと将熙くんが、そして溝口くんと富田くんがキャスティングされるとは思わずびっくりしました…!!

とにかく気合いの入ったプロジェクトだなあ、という印象です。告知解禁からこれまでの段取りといい、イベントに参加している関係者の数といい。

しかし、まだこの2.5次元アイドルとは一体何(誰)なのかが掴みきれていません。
今や演劇の1ジャンルを示す言葉としても使われている「2.5次元」。
原作つき舞台作品において、そのキャラクターを役者が演じるにとどまらず「なりきる」ことで、2次元でも3次元でもない立体的な架空のキャラクターがうまれる。それが、私が持つ2.5次元のイメージです。

今回のプロジェクトの発表当時、私はドルステ的なものなのかなーと想像しておりました。(ドルステはDVDで嗜んだ程度なので認識が間違っていたらすみません!)ドルステのアイドルたちがメインステージの延長線上で、ツイッターなどを実際に活用するような、そんな感じの。「役者」はそこから切り離され、彼らがなりきるアイドルそのものが、ただ目の前に存在するという。
もう少しいうと、Dear Dreamというアイドルグループの形のないキャラクター像がまずあって、それを2次元と3次元の彼らが共有するものなのかと思っていたのです。つまりキャストは演じるというより、なりきる、いやそれ以上に、2次元のDear Dreamとイコールになる。役者はそこに介在しない。

……ですが、彼らがキャスト発表後に新規で開設したり、あるいはプロフィール画像を新たにしたツイッターは役者の名義でしたし、bioには○○役と書かれていました。
そして本日のイベントは、ご本人名義での登壇。

「あれ……思ってたのと違うのかもしれない……??」

まるで制作発表記者会見のような関係者多数のイベントの中で、「自分が演じるキャラクターと自分との共通点をあげてください」という質問がありました。
登壇しているキャストとキャラクターの間に演じるもの/演じられるものの明確な線を引くその問いを聞いて、このプロジェクトにおける「2.5次元」とは舞台ジャンルとして用いられているものとは別物なのだなとはっきりと気付いた訳でございます。……と思ったらサインはキャラクター名義で???どういうことだ????

ここでの「2.5次元」とは一体なんなのでしょうか。
2次元3次元にこだわらないメディア展開をするコンテンツというだけなら、今まであったコンテンツと変わらないのでたぶん他に何かがあるのだと思います。それがきっとこれから明かされていくんでしょう。アプリゲームのキャラクターに声を当てる、彼らの声で歌う、ライブをするだけなら、彼らが俳優を生業としているというだけで既存のアイドルゲームと全く同じだし。
もしかしたら本人名義なのは今回のお披露目イベント限りで、今後のイベントは2.5次元アイドルとしてなりきってくれるのかもしれないし!
あっ、それとも「2.5次元」は「アイドル」じゃなくて「応援」という言葉に掛かっている…のか!??

そして、美麗なキャラクターイラストを担当されている秋赤音さんは、ニコニコ動画で知名度の高い歌い手&描き手さんとのこと。
しかしアイドルもののアプリゲームをプレイする層と、ニコ動のユーザー層は結構重ならない部分が大きいのかなあと思っていたのですが、どうなのでしょうか。もちろん男性版アイカツ、との評判で惹かれるアプリゲームユーザー層も多いと思うのですが。
キャストの方も確かに既に活躍されてる方がほとんどだけれど、ファン層は2.5次元作品のファン層とは違うはず。
しかしまあ素人目に見た事しか私も知らないので、何かきっと思惑があって、私が気付けていないだけなのかもしれないですし。


……とはいえ、イベントで見た彼らはとてもとても素敵でした!

遠慮を知らないぐいぐいヤンチャ系主人公気質の壮馬くん、落ち着いているように見えて実は抜けてる天然な溝口くん、場慣れしているようなある種の軽薄さを醸し出しつつもツッコミポジションを確率する富田くん、劇プレで培われた(笑)ハチャメチャさで掻き乱しつつも流れを作る将熙くん、緊張と初々しさの中にも真面目さとハングリー精神が垣間見える正木くん。
それぞれの個性がきちんとあって、キャラクターが立っていて、「ああ〜でもやっぱりアイドルってこういうことだよな〜」とアイドルを推したこともないのに思いました。
今後も彼らが「なりきらない」なら、いっそ彼らのパーソナルな部分をそのまま2.5次元アイドルたちにも組み込んだらいいのに〜!と思ったけれど、それだとまた「2.5次元」とは違うものになりますかね。

なんにせよ、キラキラと輝いていた彼らがこの先どんな風に活躍していくのか楽しみです。
そして早くライブに行きたいです……!!!リリイベやってくれ!

*1:その頃はまだドリフェスというタイトルが発表される前でした

仮面ライダードライブについて交々――いつかまたひとっ走り付き合うよ

初めて、仮面ライダーというものを、特撮というものを、追いかけた一年でした。
正直に申し上げますと、見てない回もあるし、映画も見れてないし、イベントも飛天とファイナルしか行けていないので、特撮ガチ勢からすると「追いかけたって言わねーんだよそれは!」とお叱りの言葉を受けてしまいそうですが、それでも私にとっては本当に新しい体験でした。

今まで私にとって特撮は、私にとってテニミュが昔そうであったのと同じように、少し距離のある遠い沼でした。
毎週日曜日の早朝決まった時刻にテレビをつけ、イベントにも足繁く通うファンの熱に気圧され、まあ私には縁のないコンテンツだろうなあと他人事のように思っておりました。

そんな私が特撮に触れるきっかけになったのが稲葉友くん。
デビュー作「クローンベイビー」で初めて出会った彼と、中屋敷演出作品「露出狂」や「飛龍伝」で再会し、間宮くん周辺の役者さんたちとの仲睦まじい様子を微笑ましく眺めつつ、「クロードと一緒に」でがつんと強い力で惹きつけられ、「フランダースの負け犬」でその役者としての魅力を知った矢先の出演。
私が箱推しして止まないアミューズ事務所の松島庄汰くんの出演もあって、ついに私はこの沼に足を踏み入れることとなりました。

「えっ?稲葉くんがライダー?嘘でしょ?」と、今まで観てきた舞台作品とのギャップに困惑と驚きで戸惑いつつ、ツイッターで「ドライブ観ます」と宣言したら「来年の秋にあるファイナルだけは、絶対に観に行った方がいいよ!」と周りの方々が親切に教えてくださいまして……こうしてこの日を迎えたのであります。

作品の話は、色々と見切れていない今、まだできる気がしないのですが、とにもかくにも本当にキャストの皆様の成長を感じた一年でした。
特に竹内涼真くん。飛天の時、竹内くんが泣いてしまった時「ああこの子は噂のファイナルでどうなってしまうのだろう」と思いましたが、今日彼が流した涙はしっかりと成長した主演のそれでした。
一話ではまだスーツに着られていた彼が、経験豊富なキャスト陣に支えられていた彼が、舞台の真ん中でキャストみんなに声をかける様にとても胸を打たれました。
ひとりひとりにそうして感謝しながら、彼らの期待に恥じぬように一年間必死で食らいついてきたのだろう彼は、表情からして一年前とはまるで違っていた。かっこ悪いところも情けないところもいっぱいあっただろうけれど、ドライブというヒーローは、今となってはもう君しか考えられないよ。

最後の挨拶で一番最初に堪え切れなくなった稲葉くん。今まで踏んできた場数が多いからこそ、そしてそのポジションだからこそ、負っていた責任や想いも大きかったんじゃないかなあと考えてしまうけれど、そして「斜に構えてしまう」彼だからこその悩みもあっただろうけど、彼がいなくてはこのチームはまとまらなかった。最初は稲葉くんがこんな風に泣き崩れるほどこの作品に思い入れができるようになるなんて、思ってなかったよ、本当に勝手にそう思ってたよ。
そして、個性の強すぎるキャラクターで最後までその役まわりに徹していた庄汰さん。居酒屋庄汰でのぬるぬるっとしたトークの印象が強かった彼ですが(笑)、私はドライブを通じてアミューズという箱にいるときには気付けなかった彼の魅力を知ることができました。きっと真面目で、人一倍周りを気にしてる。こんな人だったんだなあ、と数年間彼を見ていたのに今更のように思いました。
ドライブという作品に出会うきっかけをくれた、二人に感謝です。

そして、飽き性な私がこうして追いかけ続けられたのは、ツイッターの力が大きいと思います。
彼らの何気ないやりとりや写真が、少しずつ親密さを増していくとともに、チームの絆が深まっていく様が見えるのはとても楽しかった。作り手が見えるものが売れる時代に慣れた私には、やっぱり作品をつくりあげている彼らの表情が見えることが、一番安心に繋がるのかもしれないなあと思ったりもします。


昼公演の時に、竹内くんが客席の子供に「君がハタチになって、俺が40歳くらいになっても、進ノ介って呼んで」と、「約束ね」と優しく呼びかけました。
ドライブを観ていたすべての子供たちにとって、竹内くんはいつまでもヒーローであり続けてくれる。それってすごいことだなあと思います。
竹内涼真という役者にとっては、この役も、彼がこれから先に演じていく多くの役のひとつであって、彼はこの先今の彼が想像もしないほどのかけがえのない役に出会うかもしれない。
けれどもそう言って子供たちに「約束」ができるくらいに、そして子供たちにとってそうであるように、大切で特別な存在として、泊進ノ介という男のことが彼の胸に深く刻まれたのだなと思うと幸福感でいっぱいになります。
私の大切な作品に対して、彼も同じように思ってくれている。どんな言葉よりも、私はその「約束」が心に沁みました。

今後また彼の、彼らの作品に出会うことがあったら、そのときは彼らが全力疾走で駆け抜けていくその傍らを共に走りたいです。だから、そのときはまた、ひとっ走り付き合わせてね。


とりとめなく、推敲もせず、勢いで書いてしまいましたが、素晴らしい作品とキャストと、共に過ごせた一年間。本当に幸せでした、ありがとう。

そして本日、私は私自身が蕨野さんに落ちる音を聞きました。推します。推しが今日もまた増えました。
お後がよろしいようで。

『クロードと一緒に』2014年版感想ツイまとめ

ふと思い立って自分用のメモに、2014年版の『クロードと一緒に』両キャストの感想ツイをまとめておきます。

―――――
2014年5月18日(日) 22:20
青山円形劇場「クロードと一緒に」稲葉伊達回・相馬伊藤回、立て続けに観た!稲葉イーヴは大小の爆発の連なり、相馬イーヴは波のような激しい強弱だった。感情の表現から、イーヴという役の精神の成熟度というか若さというか年齢差というか、を感じました。感想をぽつりぽつりと呟いていきます。

2014年5月18日(日) 22:23
【18稲葉伊達】マスコミが追い払われた後。沈黙。刑事を見つめるイーヴの瞳に、ゆっくりと浮かび上がってくる涙。それが溢れるのが先だったのか、彼の中ですべてが弾けるのが先だったのか、あの瞬間から始まったイーヴの告白を、息をするのも忘れそうになるくらい全身で聞いた。 #クロードと一緒に

2014年5月18日(日) 22:24
【18稲葉伊達】イーヴの姿が滲んでぼやけて全く別の誰かに見える瞬間が度々あった。誰かは分からない、誰でもない、誰か。彼の感情が空間を支配して、その全身が大きくなったり小さくなったりした。すべてを話し終えてしまうと彼は本当に空っぽになってしまったのだと分かった。 #クロードと一緒に

2014年5月18日(日) 22:26
【18稲葉伊達】肉の内側をひっくり返してみても血液さえ絞り取れない気がした。カーテンコール、同じ表情でイーヴが出てきた時、胸が苦しくなって、もう観たくないのにずっと観ていたくて、早く彼が稲葉氏に戻ってほしいと思うのに、ずっとイーヴでいるのではないかとも思った。 #クロードと一緒に

0214年5月18日(日) 22:39
【18相馬伊藤】同じシーン、イーヴがどういう表情を浮かべればいいのか分からなくなってしまったように頬を震わせるのが見えた。そこを涙が伝い、唇に溜まってキラキラ光っていた。それまでの彼は何かを取り繕うような、目を逸らしているような、虚勢を張るともまた違う、 #クロードと一緒に

2014年5月18日(日) 22:40
【18相馬伊藤】そういう態度だったのがふと解けて、水面の上でほぐれて広がって、波のように揺らめくのが見えた。彼の独白には稲葉イーヴのものとは違う脈絡があった。言葉の脈絡じゃなくて感情の脈絡。目から体の内側に彼の想いがすうと入り込んできて侵食していくようだった。 #クロードと一緒に

2014年5月18日(日) 22:42
【18相馬伊藤】部屋のドアが叩かれイーヴと刑事は無言で見つめ合う。しばらくしてふっとイーヴの口元が解ける。まるで糸が切れたように。それから彼は部屋を出る。カーテンコール、イーヴは速記者に腕を引かれて出てくる。自分の足で立っているのもやっとというほどに力ない。 #クロードと一緒に

2014年5月18日(日) 22:45
稲葉イーヴは一気に力を使い果たしたように空っぽになり、相馬イーヴはじわじわと体を蝕まれて終息したような、そんな風に見えた。感情の表現の仕方もそう。 #クロードと一緒に

2014年5月18日(日) 22:46
感情表現の点と線の違いが、そのままイーヴの役の成熟度や若さに思えた。稲葉イーヴは若い。冒頭から怯えて強がってみせる子供のよう。クロードのことをまるで聖者かなにかのように盲目に慕っている。彼とクロードとの行為はまるで神聖な儀式か何かのようにも聞こえた。個人的に。 #クロードと一緒に

2014年5月18日(日) 22:49
相馬イーヴは、稲葉イーヴより大人びていて、すべてを諦めていながら、クロードのことだけは胸の奥深くにしまいこんでいるような気がした。等身大の男として、彼を愛しているようだった。彼らはもっと生々しい行為をするんだろうと思った。個人的に。 #クロードと一緒に

2014年5月18日(日) 22:50
相馬イーヴが語るクロードは、それくらいの歳の男がするように、普通にイーヴを騙していたりもするだろうと思った。個人的に。 #クロードと一緒に

2014年5月18日(日) 22:50
あ、そっか。稲葉イーヴは少年で、相馬イーヴは女だったのかな。それに近いかな。いや。うーん。 #クロードと一緒に
2014年5月18日(日) 22:51
――――

松田凌くんの2015年版を観られなかったのが本当に心残り。

『クロードと一緒に』という作品は、役者にとって、とても苛酷なものなのだろうと思う。人によっては、それからの役者人生ががらりと変わってしまうほどに。
私は当時この作品を観たときに、キャラクターの感情だけでなく、それを演じる役者のすべてが目の前に曝け出されているように感じた。
具体的な彼らの性格や人生というよりも、その役者の根本が、役者という人間そのものが、私の目に見えたように思った。彼がどういう風に怒り、悲しみ、笑い、愛するのか。この作品はすべてを暴き出してしまう。

でも、だからこそ、私はその「生々しさ」に強く惹きつけられ、いまでも度々思い出すんだろう。観ている時の疲労感はすごかった。でも、それだけの物を観てしまったという満足感が確かにあった。

余談ですがイーヴをぜひ演じてほしい推しは、安西くんと間宮くん。ふたりがイーヴという人物をどう生きるのか非常に興味がある。
生成も、かな。観てみたいというより、この作品を通じて彼がどう変わるのかを見てみたい。(賀来)賢人と原嶋くんは、ちょっとだけこわいかもしれないな。でもそうやって妄想してる時点で、多分かり観てみたいと思ってるんだろうけど。

『武士白虎〜もののふ白き虎』雑感――懺悔と赦しの物語

※白虎が一部白狐になっていたので直しました!恥ずかしい!

『武士白虎〜もののふ白き虎〜』観ました。
東京では二回しか観劇できなかったのですが、大阪に備えて簡単に感想をまとめておこうと思います。
ネタバレあり、セリフはすべて曖昧なので多分間違ってます。大目にみてください。


まるで、貞吉が赦されるために、そのためだけに、作られたような作品だったと思いました。
白虎隊の今まで描かれなかった一面を描く青春群像劇とどこかで聞いた気がしていたけれど、彼らの激動の青春を語ったというよりも、ただひたすら貞吉の懺悔と赦しの物語だった。

全編のほとんどが貞吉の回想で進みます。
だから貞吉の目に彼らがどう映ったのかは分かるんだけど、貞吉という人物はまったく見えない。
回想では、悌次郎はじめ、隊のみんなが貞吉に一目を置いている。けれどもそれが何故なのかはわからない。「落ちこぼれの星」って台詞で初めて、あっ貞吉って落ちこぼれなんだ??って気付くぐらい。
彼の夢は、好きなものは、嫌いなものは、得意なことや苦手なことはなんなんだろう。なんでみんなは貞吉のことを、そうして認めているんだろう。悌次郎が貞吉を白虎を背負う者として選んだ理由は何だったのだろう。
貞吉の姿にだけ、もやがかかってはっきりと見えない。
私には、彼の姿が「意図的に」その過去から消されているかのようにさえ映った。

語り部が真実を語るとは限らない。彼が真実を隠し、曖昧にするとき、そこには彼の明確な意図や強い想いがあると思う。
この回想の目的は、過去の事実を正確に伝えることではない。貞吉の、心に蟠る問いの答えを探すための回想なのだ。
作中で、斎藤一が「おまえは何を持ってるんだ」と問う。「俺は」と答えようとした貞吉の言葉は、回想に呑まれていく。
でも「俺は」の先に続く言葉を、そのとき貞吉は持っていたんだろうか。
少なくとも、貞吉の回想から彼の目線で過去を覗いていた私には言葉の続きを紡ぐことができない。
どうして俺だけが残されてしまったのか。他のみんなの方がこんなにも優れているのに、悌次郎の方がこんなにも相応しいのに。それを描くための回想だったんじゃないかと思う。

どうして、なぜ、他の誰でもなく、俺が。
そういう想いを抱きながら生き残った貞吉に、斎藤は悌次郎の言葉を託した。
白虎隊の旗は、貞吉に。彼こそが、虎の心を持つものだから、と。憧れて、嫉妬していたのは悌次郎の方だ、と。
そう聞かされてから、彼は悌次郎と最後に交わした言葉を思い出す。自刃しようとした貞吉を、悌次郎が止めるシーンだ。
「おまえが残れ」、「それがみんなの想いだ」、当時はきっとその言葉さえも「どうして、なぜ」と思いながらも聞いていたのかもしれない。けれども、斎藤の言葉を聞いた貞吉は、その言葉にこめられた本当の想いを理解する。
貞吉は、間違いなく、選ばれた。白き虎の仲間たちに、彼らの心を伝える者として。
何年か越しに受け取った想いに、貞吉は泣き崩れる。生き残って、生きていて、よかったのだ。そのとき、彼は初めてそう思ったに違いない。

観客としては、というか私としては、貞吉が誰よりも虎の心を持っていたと言われたって、それが作中どこにも語られていないのだから正直あまりぴんとこない。貞吉の目から見た他の子達だって、それぞれ虎の精神を持っていたと思うし、それに貞吉が勝る根拠なんてなにもない。

だけど、貞吉が本当に生き残るに値する人物だったのかなんて、さして重要じゃないんだろう。この物語の真髄は、そこじゃない。
白き虎の精神を持った彼らに、貞吉がいままで語ってきた彼らに、認められたこと。憧れてやまなかった男に認められたこと。貞吉が、囚われていた過去に赦されたこと。
それが一番大切なことであり、この作品のオチなのだと思う。

淡々と、寂しそうに、懐かしげに、過去を振り返っていた若者が、ようやく自分の足で歩んでいく様を描いた物語。
それが、私にとっての「もののふ白き虎」という作品だった。

最後、貞吉は白虎の仲間たちの回想の中に笑顔で加わっていく。
それは、「どうして」「なぜ」に囚われ続けていた過去には決して叶わなかったことなのかもしれない。彼らと肩を並べながらも、どこか不安や疑問や嫉妬を抱いていたのかもしれない。けれども、過去に赦しを得た貞吉は、ようやく彼らの隣で心から笑顔になれた。
それは、回想の形を取りながらも、貞吉のこれからの未来を予感させるような明るく眩い光景だったと思っている。


こうして語ってきたけれど、私はこの物語の語り部が、安西慎太郎だったからこそこうしてこの物語を受け止めることができたんじゃないかと思っている。彼だったからこそ、単なる歴史物じゃないと捉えることができたのだと思う。
安西くんのお芝居を見ていると、私はいつも蝋燭の炎を思い出す。揺らめき、強くなり弱くなり、蝋を滴らせながら、必死に燃えるその姿。彼は作品ごとに、ひとりの人生を生々しく生きている。
安西くんが演じる貞吉に、この物語を通じて、赦しが与えられて本当によかった。
彼の人生は、この作品の外にまでずっと続いていく。
過去に赦された彼は、真っ直ぐに前を見て、この作品から歩き始めたばかりなのだ。きっと。

RENT雑感――平間壮一はただの天使でした。

観てきました!RENT!
すっごくよかった!ので、今日は考察抜きにして、とりとめもなく感想を書き留めてみたいと思います。

私が見たキャストはこちら↓

★9月29日(土)ソワレ
≪日替わりキャスト≫
ロジャー ユナク
ミミ ジェニファー
コリンズ 加藤潤一
エンジェル 平間壮一
モーリーン ソニン

シアタークリエに入ったのは三年ぶり。最後は2012年のRENTの千秋楽でした。最推しである賀来賢人が主演ということで、足繁く通った思い出の場所です。
今回は、アミューズの加藤さんと壮一くんが出るということもあり、そのキャストに合わせて観劇しました。

本当に素晴らしかった。2012年版は、推しが出ているということでどこか冷静にも客観的にもなれず(もちろん心から楽しんでいましたが、推しが出る作品を見る時はやっぱり彼に偏って観てしまうので、どうにも全体を見渡す余裕が持てません。)観ていたので、三年越しに改めて、この作品の純粋な素晴らしさを知ることができたように思います。

とりあえず何から語ればいいのか分からないので、キャスト別に書いてから全体のことを話そうと思います。
2012年との比較もあります、ご了承ください。

▼マーク 村井良大
賀来賢人とは全く違うマークでした。
賢人のマークは、RENTという作品の外側から「物語」を眺めている、まさに作品の「傍観者」という印象。ストーリーテラーとしての語りやコミカルさは、どちらかというと(いい意味での)無個性の象徴のようで、2012年私は彼のことばかり注目していたのに、それを思い出そうとするほど、その傍らに別のキャラクターがいたことを思い出します。
「作品・物語」そのものに居場所がない、マーク自身の個性や歴史や物語が見つからない、ただ「作品」に押し流されるしかない、そんな焦燥感や寂寞感を感じました。作品の語り部の孤独を、彼は表現していたように思います。
村井くんのマークは、賢人のときよりももっと「物語」の内側にいたように感じました。彼のマークには個性があり、歴史があり、物語がある。けれども、彼が立ち入ることのできない「場所」が存在する。
ロジャーたちとは、友達でありながらカメラのレンズを通してしか関わることができない。キャラクターの人間関係における孤独が、見えたような気がします。
「Without You」の「あなたがいないなら、私はいない」という歌詞のとき、一人明かりに照らされたマークを見つめながら、彼にとってのそういう存在がこの物語の中には存在しないのだということに胸が締め付けられました。
表情豊かで、周りに取り残される焦りと寂しさを感じながらも、時折茶目っ気を見せる彼は、ニューヨークの若者の等身大の姿でした。
初めて村井くんの生のお芝居を観たのですが、3列目という近さだったので、その表情をはっきりとみることができました。
眉毛をくいと上げる様、視線の動き、躊躇うように宙を掻く指先。そのすべてにマークの物語があった。
とっても素敵な役者だなあと思いました。一瞬で好きになったよ!


▼ロジャー ユナク
▼ミミ ジェニファー
ユナクのロジャーには、中村倫也のロジャーの系譜を感じる、と聞いていたのですが、実際観てみると確かに!と感じました。
でも方向性としては似たものがあれど、人生や人間というものを諦めたような弱さを持った中村ロジャーと、もう少し幼くて、何かに触れられるのを恐れるような心の弱さを持ったユナクロジャーという印象の違いがあったように思います。
女性の母性本能をくすぐるような寂しさを秘めた、ハリネズミのような弱さ。っていうんですかね。
それを、ジェニファーのミミが抱き締めるという構図!すばらしい!
ジェニファーは、前回観たよりも更にセクシーで、パワフルで、エネルギッシュでした!
物語に出てくる19歳の少女というと何となく、もっと可憐で、儚げで、か弱いイメージを持ってしまいがちですが、実際の19歳は彼女のようにエネルギーに満ち溢れているんですよね。けれども、その陽に当たる部分の裏側に、弱い部分を持っている。
母は強し、という言葉をジェニファーを見ていると思い出すのですが、ユナクも超新星の母親ポジションと聞き、ロジャーとミミってママ会なんだな……とふと思ってしまったのは秘密です。
ちなみに私が思い描く19歳の少女としてのミミの姿は、ジュリアンのロジャーに対するとき見えたような気がしています。


▼モーリーン ソニン
▼ジョアンヌ 宮本美季
▼ベニー Spi
とにかくよかった!!!!!より過激に魅力的にパワーアップしたソニンと、それに負けない宮本さんの伸びやかな歌唱力!ソニンの奔放さが増した分、ジョアンヌの堅物さもより浮き彫りになっていて、それなのに惹かれあってしまうふたりの可愛さたるや。「Take Me Or Leave Me」最高でした!!!
そして、Spiのベニー。キャストに合わせて演じ分けているのだろうキャラクターの前回とは別の一面が見えたような気がしました。マークやロジャーと同じ志を持ち、それを自分なりに形にしようとしているのに、うまく分かり合えないその不器用さが非常に愛おしかったです!


▼コリンズ 加藤潤一
▼エンジェル 平間壮一
このふたりの回を観れて、本当によかったです。
加藤さんの舞台は劇プレの公演と前回のRENT、壮一くんの舞台はアミューズの公演・双牙・ロミジュリ・アルカードしか観たことがなかったのですが(といいつつ結構観てました……)このふたりの今まで知らなかった魅力を見られたような気がします。
一幕の「I’ll Cover You」で、ふたりきり舞台上で歌う様子に謎の感動を覚えました。アミューズ箱推ししててよかった!!!!!!!
加藤さんのコリンズは、2012年に観たときより声の伸びも響きも格段によく、それに演技力が加わって、更に素敵に進化していました。コリンズの優しさや、弱さ、温かさが詰まった愛が、まっすぐにエンジェルへと注がれていて、もう本当に幸せになってくれ!!と心から願うばかりでした。
プライズ、すっごくよかった…!エンジェルへの感謝と愛情に溢れていました。2012年のときから、この曲が終わった後にロジャーがコリンズの背に手を添えながらはけていくのが好きです。

そして、壮一くんのエンジェル。天使、の一言。素晴らしかった。
何から何までキャラクターそのもののルークのエンジェルやドラァグクイーンが内に秘める人間らしさを持ったロウマさんのエンジェルとも違うけれど、少女のような愛らしさや母親のような優しさで溢れていました。無邪気にコリンズへと抱きついたり、愛おしげにそっと触れたり、その仕草が本当に天使そのもの。言いすぎじゃないと思います。「I’ll Cover You」で、手すりに指を滑らせてコリンズへ手を伸ばすのがとっても愛おしくて、切なかったなあ。
そして「Contact」で鍛え上げられた肉体が露わになり、病に翻弄されながらも抗い生きようとする姿には、人間の生命力そのものを見た気がします。
「Take Me Or Leave Me」で、最初コリンズに抱きしめられながらふたりの様子を見て笑っていた彼が、曲の終わりに近付くにつれ次第に表情に影を宿していったのが印象的でした。

加藤潤一と平間壮一って本当にすごい役者なんだな、もっと彼らのコリンズとエンジェルを観たかった。一幕を3回ぐらい繰り返し観て心づもりをしてから、心して二幕に挑みたい、そんな気持ちです。



今回、初めて客観的に作品を観て、海外の作品独特?の面白さを感じたのが、彼らの親の存在でした。
二幕最後の「Voice Mail」。ロジャーの母親、ミミの母親、ジョアンヌの父親、マークの母親が出てきます。
日本での若者たちに焦点を当てた作品において、印象的に描かれる親の存在は、その多くがキャラクターへの抑圧や制限、コンプレックスへと結びついているように思います。また親が登場することでキャラクターに途端生活の匂いがしはじめるようにも感じます。個人的にです。男のキャラクターの母親が出てくると、あっマザコンかな?と思ってしまうあの感じです。
もちろん彼らも人間なので、親がいることは間違いないのですが、それが登場するだけで私はそのことに深い意味を感じてしまいます。
けれどもこの作品には、親という存在がさらりと、しかし印象的に描かれています。でも、それがキャラクターへの抑圧や制限、コンプレックスへと繋がっているようには見えない。親の存在は、あくまでも他のサブキャラクターと同列に語られます。
幼い頃より親から自立した個人として子どもを育てるアメリカと、家族の中心が子どもになる日本。アメリカと日本の親子関係の違いを、そこで改めて感じました。
いまの時代、日本にもアメリカ的な教育方針の家庭も多いと思いますが、日本の過去の物語を観れば日本的な家庭を想定したもののほうがまだずっと多いですし、私もそういう作品を観て育っています。親が子の抑制や制限やコンプレックスの象徴と感じるのも日本で育った自分だからこそなのだなと、自分の価値観を改めて知る機会になったのも、今回客観的に作品を観られたからなのだなあと思うと嬉しい限りです。

とにもかくにも素晴らしい作品だったRENT!
全日完売との噂を聞きますが、叶うならもう一度観に行きたいです。
二幕最初の「Seasons Of Love」で涙が零れ落ちそうなほど目を潤ませていた壮一エンジェルが、ラストで嬉しそうに加藤コリンズに寄り添う姿が、帰宅した今でもはっきりと目に浮かびます。
本当に素晴らしい観劇体験でした。

最後に。
アミューズの平間壮一くんはただの天使です。

柿喰う客『天邪鬼』を観て――イマジネーションを武装しろ

※ネタバレありの推敲なし野郎です


私が好きな演出のひとつに「劇場の壁が取り払われ現実へと物語が続いていくエンディング」というのがある。なんか簡潔な呼び方があるんでしょうかね、これ。
私は今回『天邪鬼』を観ながら、その演出と同じようなものを感じた。まあ、要するに好きって話なんだけども。
私が観たことのある中から例を挙げると、ベッド&メイキングスの野外劇『南の島に雪が降る地下空港『タガタリススムの、的、な。』*1のラスト。私が特に好きな作品の中のふたつだ。
この演出の何に私は惹かれているのか、まずはふたつの共通点から考えてみた。

①非日常的に作り込まれた劇場

『南の島に〜』テント小屋。芝の上に築かれた階段式の座席の上やビニールシートの上に座る。内容としてはノンフィクションだが、いまと時代が異なるという意味での非日常性と、雨や土の匂い・虫や風の声や気配が隣にある環境での観劇という意味での非日常性に貫かれた劇場空間。
『タガタリ〜』舞台が観客をぐるりと取り囲むようにあり、更にその四角の内側にまるで食堂のテーブルのように列を成して舞台の板が並ぶ。その間に、観客が向かい合ったり背を向けあったりして座る構造。舞台の中に客席がある。劇場の中央には真っ黒に焦げたような塊が開演前から釣り下がっており、演者・スタッフみな赤い衣装をまとっている。観客はそこに足を踏み入れた途端、その世界に取り込まれていく。
⇒世界観の確固たる空間だからこそ、そこに風穴が開けられた時も、芝居は現実に呑まれず、寧ろ現実を芝居が呑み込んでいく


②演者=観られる/観客=観る にとどまらない

『南の島に〜』作品のストーリー展開として。戦時中南の島に劇場を作るという筋のため、演者の中でも「観る」側と「観られる」側に分かれる。「観る」側の演者が観客に混じって「観る」だけでなく、舞台の上に舞台が作られ、「観られる」演者と「観る」演者・観客の関係が生まれ、演者と観客の境界が曖昧になる。
『タガタリ〜』劇場の構造として。観客の周りを、間を演者が駆け巡り、観客の真上で、或いは観客に混じって会話をする。観客が座る位置によって観えるものが変わり、自ら観ようとしなければ観えないものもある。また劇中登場するビデオカメラで写した映像がスクリーンに映し出される際は、演者もまた観る側になることも。物理的に演者と観客の境界が曖昧になる。
⇒舞台と客席の境界が明確でないからこそ、その世界が現実(劇場の外)へと通じた時に(劇場内にいるすべての人の意識が劇場の外へと向き)観客は自然に演者と同じ位置へ立たされる






※補足*2

少し本筋からズレるが、①を考えた時に、私は蜷川幸雄演出の『ハムレット』や『ロミオ&ジュリエット』(2014年版)のラストの演出を思い出す。
ロミジュリは、キャピュレット家とモンタギュー家がロミオとジュリエットの死により和解をせんとしたところで、第三勢力である少年(劇中で両家からイジメを受けていた)が両家のみならずそこにいた神父や警察もろともマシンガンで殺戮するという衝撃のラストで幕を閉じる。
これは9.11以降に氏が『ハムレット』に追加した演出と同じらしい。

 蜷川幸雄の4度目のヴァージョンとなる「ハムレット」のエンデイングは、公演3日目の16日から変更された(というこの事実を知ったのは、9月27日付日本経済新聞の夕刊の記事によってである)。
≪中略≫
 蜷川幸雄はそのことについて、「芝居が現実に負けてしまう」と思って、テロとも、報復とも解釈できる殺戮の場面を新に付け加えたという。
 月並みな言葉で言えば「事実は小説よりも奇なり」で、芝居は現実の前では時に無力である。

高木登 観劇日記-2001-

このブログの「芝居が現実に負けてしまう」という発言のソース元をきちんと読めていないので何とも、なのだけれど。
これは「芝居の中に現実を取り込む」演出だと思うので、①の「芝居が現実を呑み込む」演出とは異なるが、どちらも虚構と現実の境界を超える・虚構をもって現実に挑む試みという意味では同じものを感じる。


……と、まあその話は置いておいて。
とにかく『天邪鬼』は『南の島に〜』や『タガタリ〜』と同じ構造だと感じたという話だった。

『天邪鬼』の開演前、主演の玉置玲央さんが「お話させていただきたいと彼が申しておりますので」と切り出し、劇団の代表であり演出家であり劇作家であり今作の演者である中屋敷法仁さんがジョークを交えながら「携帯電話の電源をお切りくださいませ」と客席に促す。
ここまでは、どの劇場でもよく見られる光景である。しかしそのアナウンスのあと玉置さんは「携帯電話の電源はお切りくださらなくて結構です」と繰り返す。携帯電話の着信音やバイブで芝居が妨げられてもそれは「仕方のないこと。定め。ディスティニー。」だから、と。
この作品の劇場のつくりは至ってシンプルで、舞台があり、その上に舞台装置があり、それと向かい合う形で客席がある。『南の島に〜』や『タガタリ〜』と比べればごく一般的な構造だ。
だが、どこにでもある日常的な言葉――「携帯電話の電源はお切りくださいませ」というアナウンスを、玉置さんの「携帯電話の電源はお切りくださらなくて結構です」という非日常的な言葉によって否定されて、観客は「彼らの言葉のどちらがホンモノなのか」とつい考えてしまう。日常が「日常を疑う」という非日常の中に呑み込まれていく。
更に彼はそこに「来る者、拒まず、去る者、追わず。ここは、そういう場所なのだ」という言葉を重ねて、扉に錠をし、空間を閉鎖する。(途中出入りをご自由に、と言われるほど、それを咎められている気分になるのは私だけではないだろうから。)
そうして彼らは「①非日常的に作り込まれた劇場」をその一瞬のうちに作り上げてしまった。

そして、さらに玉置さん演じるアマノジュンヤはこう続ける。自分は「信用に足る存在ではないのだ」、「作者本人も」彼の言葉に「明らかなる虚偽の内容や矛盾が」あることを認めている、と。
この台詞は、単にこのキャラクターが嘘つきな人物であるということを言っているだけではない。
私たちにとって、いや私にとって「演劇を観る」という行為は「演者を信じる」ことから始まる。彼が、目の前にある木組みのセットを見ながら「大きな山だ」と言えば、私の目にはそのセットが山に見える。テニスのラケットを振れば、私の目にはその先に弾むボールが見える。
限られた空間でそこにない何か信じること、芝居という嘘に進んで騙されること。それは演劇における演者と観客……いや、演者と私の間で、作品を楽しむために、ほとんど意識しないうちに敷かれた不文律のようなものだと思う。

しかし、冒頭のこの言葉で、「彼の芝居には嘘がある」と作者から明言される。演者と観客の間での暗黙の了解が、彼ら自らの手で陽の目に晒される。
もしかしたら、彼が「山だ」と言ったセットは山ではなく川かもしれない。ラケットを振りかぶってボールを打っているのではなく、人を殴り殺したのかもしれない。「芝居」に「嘘」が含まれるとはそういうことなんじゃないだろうか。
「②演者=観られる/観客=観る にとどまらない」
演者の言葉を信じられなくなったとき、観客は何を信じればいいのか。何を信じて、何を「観る」のか。選択を迫られる。演者は寧ろその選択を舞台上からじいと「観ている」のだ。

そうして非日常的に作り上げられた、演者と観客の境界の曖昧な劇場で、物語のラストにアマノは「拍手は、どうかご容赦ください」と言う。

拍手は、どうかご容赦ください。
それは、すなわち閉幕の合図。
現実という限りある世界へ
我らを誘う呪いの儀式。

柿喰う客『天邪鬼』上演台本より

しかしそんな彼の言葉を遮り、ショウジは僕は「狼少年」だからと、今まで語ってきた物語そのものを「虚言」だと覆してしまう。
呆気に取られる観客を置き去りにしたまま、演者が舞台上に揃い、静かに頭を下げる。私たちは慌てていつも通りの拍手をおくる。けれどもアマノは劇場にこだまする拍手に耳を塞ぎ、お辞儀もせぬままよろよろと舞台から去っていく。
客席の照明が上がり、劇場のドアが開け放たれ、観客がざわめき出す。けれどもカーテンコールという、非日常から日常へと戻るための儀式は終わっていない。まだアマノは芝居をやめていないのだ。
劇場を後にする観客とともに、非日常は日常へと溢れ出していく。アマノの物語が、劇場の外へと続いていく。
まさに、私が好きな「劇場の壁が取り払われ現実へと物語が続いていくエンディング」だった。*3


このエンディングが組み込まれるとき、私はその作品に作者の強い意志と想いを感じる。一方的にだけどね。
この『天邪鬼』という作品には、どんな意志とどんな想いが込められていたのか。多分、それを何と捉えるかは人によって異なるのだろう。柿喰う客の作品には、観る人によってまったく別のものに映るという陽炎のようなところがある。

少し戻るが、「観客が演者に『信じるな』と言われたとき何を信じるのか」という話は、アフタートークで中屋敷さんが少し触れていた。
「そう言われたお客様が役者を信じるのか、信じないのか。それを試したいという作為的な想いがあった」(意訳)と彼は言っていたが、それはきっと観客それぞれの観劇体験や価値観によって異なるのだろう。

私はといえば、その「信じるな」という言葉も「オオカミ少年」のショウジの言葉も信じなかった。
私は、劇中で折り重ねられた物語そのものを信じた。演者を信じることで見えてくる世界を信じた。彼らが山だと言ったものを山だと思い、テニスラケットを振るった彼らの先に飛び跳ねるボールを見る。そうして自分の目に見えたものを信じた。
だから私にとっては、イマジネーションを武器に戦う子供たちも、演じることで何にでも姿を変えられるアマノの姿も、オオカミ少年のショウジが暴力を受けていたことも真実だ。
私は「演者を信じる」という前提で芝居を観てきた自分自身を信じていた。そういう形でしか、私は観劇することができない。
私とは異なる観劇体験をしてきた人には、きっと別の作品が見えていたのだろうと思う。ほかのものを信じ、ほかのものを信じなかったかもしれない。
なにを信じることができるのか、なにを信じないのか。それはすべて観客に委ねられている。この作品において、観客は「観る」だけの存在ではないのだから。

……で、何の話だっけ?
そう、『天邪鬼』に込められた意志と想いの話ね。人によってそれが何と思うかはそれぞれだと思う、ということを言いたかったんだった。
そして私は、この作品を見ながら中屋敷さんのインタビューを思い出していた。

中屋敷:演劇界の現実がだんだん明るみになりつつあるんですよね。劇団を維持するために何人動員しなければいけないかとか、俳優が食べるためにどういう仕事をしなきゃいけないかとか。まあ、世の中の人たちがうっすら想像しているとおりの、悲惨な現状です。でも「アーティストはお金がなくてかわいそうですね」で終わるんじゃなく、業界人同士で傷を舐め合うのでもなく、この閉塞した状況をぶっ飛ばすような話をしたい。

「悲惨な演劇の状況をぶっ飛ばしたい」中屋敷法仁インタビュー - 舞台・演劇インタビュー : CINRA.NET

アマノのセリフに「イマジネーションを武装した」という言葉がある。
劇中、子どもたちは「戦争ごっこ」に始まったイマジネーションを武器にして、本物の戦争に身を投じていく。
イマジネーションが、演じるという行為が、誰かを傷つけ、誰かを救い、誰か殺す力を持つ。演じる自分を信じるだけで、イマジネーションはとてつもない力を発揮していく。
私は、この作品に「閉塞した状況をぶっ飛ばしたい」という意志と想いを見た。劇場という限られた空間で行われる演劇が、その閉じた世界から日常へと飛び出して、何かを変えていくかもしれないという希望を見た。現実を芝居で呑み込んでやろうという気概を見た。見たような気がした。
イマジネーションは、時に暴力となり狂気となり猛威を振るう。その力が現実に及ぼすことは決して良いことばかりではない。それは、演劇を愛する観客の喉元へ、鋭く突きつけられる刃のような「現実」である。
でもこの作品を見た私たちは、その力の強さも恐ろしさをそうして知った。全容は捉えきれずとも、そういう側面があることだけは改めて、この身をもって知らされた。
演劇というイマジネーションを目にした観客は、その強さと恐ろしさを知った上で、劇場の外へと、日常へと挑んでいく。時にそれを、それぞれの形で武装することもできる。その虚構の武器を手にした人すべてが、プラスの方向へ向かうとも限らない。けれども、私たちは、確かに、その演劇を見る前とは違った人間になっている。*4


私は、作品が一応の幕を引いた今も、まだどこかからアマノジュンヤの視線を感じている。彼はまだ演じている。何者かになった彼の、何者かの目で、私をどこからかじっと「観ている」ように感じている。彼の作り上げた世界の中で、私がどんなイマジネーションを武装して、現実と戦うのかを彼は「観ている」のだ。彼の世界の「演者」なのか、それとも「鬼」なのか、それを見極めている。

観客として、芝居を「観る」だけではなく、何を信じ、何を「観る」のかを選択する。そして、それを観た私たちはそれぞれに違うものを得て、変わっていく。それを含めた世界のすべてが、現実そのものが、まだこの世界のどこかで演じ続けているアマノにとっての「演劇」なのかもしれない。

というところまで書いて、パンフレットの中屋敷法仁分裂インタビューを読みました。
演出家中屋敷さんの言葉にうんうんなるほどと頷きながら、この話を締めようと思います。


いまはとにかく、ハイキュー‼︎という作品を中屋敷さんがどう作り上げていくのか、そして玉置くんがライチでどんなタミヤを演じるのか、そればかりが楽しみな演劇人生でございます。

*1:私が観たのは2015年再演です。

*2:最初の認識→ 観客が座っている客席=客席(非日常)/ テント=客席と舞台を覆う劇場の壁(内:非日常/外:日常)/ 役者が立つ板の上(板の上にある舞台含む)=舞台(非日常)/ テントの外=劇場の外(日常) テントの壁が取り払われたあと→ 観客が座っている客席=客席(非日常)/ テント=舞台の中の舞台(非日常)/ 役者の立つ板の上(板の上にある舞台含む)=舞台の中の舞台(非日常)/ テントの外=舞台(非日常??)

*3:柿喰う客の作品は「これをもちまして終演でございます」という言葉が繰り返されることできちんと幕が降りる場合が多かった。劇場の外に出るだけで、私たちは一瞬で日常に戻ってくることができた。

*4:中屋敷さんが誰にも見せない前提で書いた作品だと言っていたのも、彼が若い頃にしたためた作品「フランダースの負け犬」に似通ったところがあるからではないだろうかと穿ったりもしている。でも、だからこそ、この作品が「10万人動員宣言」と共に打ち出されたことに私はとても納得している。