推しのATMになりたい日常

推敲しない女です。

柿喰う客『天邪鬼』を観て――イマジネーションを武装しろ

※ネタバレありの推敲なし野郎です


私が好きな演出のひとつに「劇場の壁が取り払われ現実へと物語が続いていくエンディング」というのがある。なんか簡潔な呼び方があるんでしょうかね、これ。
私は今回『天邪鬼』を観ながら、その演出と同じようなものを感じた。まあ、要するに好きって話なんだけども。
私が観たことのある中から例を挙げると、ベッド&メイキングスの野外劇『南の島に雪が降る地下空港『タガタリススムの、的、な。』*1のラスト。私が特に好きな作品の中のふたつだ。
この演出の何に私は惹かれているのか、まずはふたつの共通点から考えてみた。

①非日常的に作り込まれた劇場

『南の島に〜』テント小屋。芝の上に築かれた階段式の座席の上やビニールシートの上に座る。内容としてはノンフィクションだが、いまと時代が異なるという意味での非日常性と、雨や土の匂い・虫や風の声や気配が隣にある環境での観劇という意味での非日常性に貫かれた劇場空間。
『タガタリ〜』舞台が観客をぐるりと取り囲むようにあり、更にその四角の内側にまるで食堂のテーブルのように列を成して舞台の板が並ぶ。その間に、観客が向かい合ったり背を向けあったりして座る構造。舞台の中に客席がある。劇場の中央には真っ黒に焦げたような塊が開演前から釣り下がっており、演者・スタッフみな赤い衣装をまとっている。観客はそこに足を踏み入れた途端、その世界に取り込まれていく。
⇒世界観の確固たる空間だからこそ、そこに風穴が開けられた時も、芝居は現実に呑まれず、寧ろ現実を芝居が呑み込んでいく


②演者=観られる/観客=観る にとどまらない

『南の島に〜』作品のストーリー展開として。戦時中南の島に劇場を作るという筋のため、演者の中でも「観る」側と「観られる」側に分かれる。「観る」側の演者が観客に混じって「観る」だけでなく、舞台の上に舞台が作られ、「観られる」演者と「観る」演者・観客の関係が生まれ、演者と観客の境界が曖昧になる。
『タガタリ〜』劇場の構造として。観客の周りを、間を演者が駆け巡り、観客の真上で、或いは観客に混じって会話をする。観客が座る位置によって観えるものが変わり、自ら観ようとしなければ観えないものもある。また劇中登場するビデオカメラで写した映像がスクリーンに映し出される際は、演者もまた観る側になることも。物理的に演者と観客の境界が曖昧になる。
⇒舞台と客席の境界が明確でないからこそ、その世界が現実(劇場の外)へと通じた時に(劇場内にいるすべての人の意識が劇場の外へと向き)観客は自然に演者と同じ位置へ立たされる






※補足*2

少し本筋からズレるが、①を考えた時に、私は蜷川幸雄演出の『ハムレット』や『ロミオ&ジュリエット』(2014年版)のラストの演出を思い出す。
ロミジュリは、キャピュレット家とモンタギュー家がロミオとジュリエットの死により和解をせんとしたところで、第三勢力である少年(劇中で両家からイジメを受けていた)が両家のみならずそこにいた神父や警察もろともマシンガンで殺戮するという衝撃のラストで幕を閉じる。
これは9.11以降に氏が『ハムレット』に追加した演出と同じらしい。

 蜷川幸雄の4度目のヴァージョンとなる「ハムレット」のエンデイングは、公演3日目の16日から変更された(というこの事実を知ったのは、9月27日付日本経済新聞の夕刊の記事によってである)。
≪中略≫
 蜷川幸雄はそのことについて、「芝居が現実に負けてしまう」と思って、テロとも、報復とも解釈できる殺戮の場面を新に付け加えたという。
 月並みな言葉で言えば「事実は小説よりも奇なり」で、芝居は現実の前では時に無力である。

高木登 観劇日記-2001-

このブログの「芝居が現実に負けてしまう」という発言のソース元をきちんと読めていないので何とも、なのだけれど。
これは「芝居の中に現実を取り込む」演出だと思うので、①の「芝居が現実を呑み込む」演出とは異なるが、どちらも虚構と現実の境界を超える・虚構をもって現実に挑む試みという意味では同じものを感じる。


……と、まあその話は置いておいて。
とにかく『天邪鬼』は『南の島に〜』や『タガタリ〜』と同じ構造だと感じたという話だった。

『天邪鬼』の開演前、主演の玉置玲央さんが「お話させていただきたいと彼が申しておりますので」と切り出し、劇団の代表であり演出家であり劇作家であり今作の演者である中屋敷法仁さんがジョークを交えながら「携帯電話の電源をお切りくださいませ」と客席に促す。
ここまでは、どの劇場でもよく見られる光景である。しかしそのアナウンスのあと玉置さんは「携帯電話の電源はお切りくださらなくて結構です」と繰り返す。携帯電話の着信音やバイブで芝居が妨げられてもそれは「仕方のないこと。定め。ディスティニー。」だから、と。
この作品の劇場のつくりは至ってシンプルで、舞台があり、その上に舞台装置があり、それと向かい合う形で客席がある。『南の島に〜』や『タガタリ〜』と比べればごく一般的な構造だ。
だが、どこにでもある日常的な言葉――「携帯電話の電源はお切りくださいませ」というアナウンスを、玉置さんの「携帯電話の電源はお切りくださらなくて結構です」という非日常的な言葉によって否定されて、観客は「彼らの言葉のどちらがホンモノなのか」とつい考えてしまう。日常が「日常を疑う」という非日常の中に呑み込まれていく。
更に彼はそこに「来る者、拒まず、去る者、追わず。ここは、そういう場所なのだ」という言葉を重ねて、扉に錠をし、空間を閉鎖する。(途中出入りをご自由に、と言われるほど、それを咎められている気分になるのは私だけではないだろうから。)
そうして彼らは「①非日常的に作り込まれた劇場」をその一瞬のうちに作り上げてしまった。

そして、さらに玉置さん演じるアマノジュンヤはこう続ける。自分は「信用に足る存在ではないのだ」、「作者本人も」彼の言葉に「明らかなる虚偽の内容や矛盾が」あることを認めている、と。
この台詞は、単にこのキャラクターが嘘つきな人物であるということを言っているだけではない。
私たちにとって、いや私にとって「演劇を観る」という行為は「演者を信じる」ことから始まる。彼が、目の前にある木組みのセットを見ながら「大きな山だ」と言えば、私の目にはそのセットが山に見える。テニスのラケットを振れば、私の目にはその先に弾むボールが見える。
限られた空間でそこにない何か信じること、芝居という嘘に進んで騙されること。それは演劇における演者と観客……いや、演者と私の間で、作品を楽しむために、ほとんど意識しないうちに敷かれた不文律のようなものだと思う。

しかし、冒頭のこの言葉で、「彼の芝居には嘘がある」と作者から明言される。演者と観客の間での暗黙の了解が、彼ら自らの手で陽の目に晒される。
もしかしたら、彼が「山だ」と言ったセットは山ではなく川かもしれない。ラケットを振りかぶってボールを打っているのではなく、人を殴り殺したのかもしれない。「芝居」に「嘘」が含まれるとはそういうことなんじゃないだろうか。
「②演者=観られる/観客=観る にとどまらない」
演者の言葉を信じられなくなったとき、観客は何を信じればいいのか。何を信じて、何を「観る」のか。選択を迫られる。演者は寧ろその選択を舞台上からじいと「観ている」のだ。

そうして非日常的に作り上げられた、演者と観客の境界の曖昧な劇場で、物語のラストにアマノは「拍手は、どうかご容赦ください」と言う。

拍手は、どうかご容赦ください。
それは、すなわち閉幕の合図。
現実という限りある世界へ
我らを誘う呪いの儀式。

柿喰う客『天邪鬼』上演台本より

しかしそんな彼の言葉を遮り、ショウジは僕は「狼少年」だからと、今まで語ってきた物語そのものを「虚言」だと覆してしまう。
呆気に取られる観客を置き去りにしたまま、演者が舞台上に揃い、静かに頭を下げる。私たちは慌てていつも通りの拍手をおくる。けれどもアマノは劇場にこだまする拍手に耳を塞ぎ、お辞儀もせぬままよろよろと舞台から去っていく。
客席の照明が上がり、劇場のドアが開け放たれ、観客がざわめき出す。けれどもカーテンコールという、非日常から日常へと戻るための儀式は終わっていない。まだアマノは芝居をやめていないのだ。
劇場を後にする観客とともに、非日常は日常へと溢れ出していく。アマノの物語が、劇場の外へと続いていく。
まさに、私が好きな「劇場の壁が取り払われ現実へと物語が続いていくエンディング」だった。*3


このエンディングが組み込まれるとき、私はその作品に作者の強い意志と想いを感じる。一方的にだけどね。
この『天邪鬼』という作品には、どんな意志とどんな想いが込められていたのか。多分、それを何と捉えるかは人によって異なるのだろう。柿喰う客の作品には、観る人によってまったく別のものに映るという陽炎のようなところがある。

少し戻るが、「観客が演者に『信じるな』と言われたとき何を信じるのか」という話は、アフタートークで中屋敷さんが少し触れていた。
「そう言われたお客様が役者を信じるのか、信じないのか。それを試したいという作為的な想いがあった」(意訳)と彼は言っていたが、それはきっと観客それぞれの観劇体験や価値観によって異なるのだろう。

私はといえば、その「信じるな」という言葉も「オオカミ少年」のショウジの言葉も信じなかった。
私は、劇中で折り重ねられた物語そのものを信じた。演者を信じることで見えてくる世界を信じた。彼らが山だと言ったものを山だと思い、テニスラケットを振るった彼らの先に飛び跳ねるボールを見る。そうして自分の目に見えたものを信じた。
だから私にとっては、イマジネーションを武器に戦う子供たちも、演じることで何にでも姿を変えられるアマノの姿も、オオカミ少年のショウジが暴力を受けていたことも真実だ。
私は「演者を信じる」という前提で芝居を観てきた自分自身を信じていた。そういう形でしか、私は観劇することができない。
私とは異なる観劇体験をしてきた人には、きっと別の作品が見えていたのだろうと思う。ほかのものを信じ、ほかのものを信じなかったかもしれない。
なにを信じることができるのか、なにを信じないのか。それはすべて観客に委ねられている。この作品において、観客は「観る」だけの存在ではないのだから。

……で、何の話だっけ?
そう、『天邪鬼』に込められた意志と想いの話ね。人によってそれが何と思うかはそれぞれだと思う、ということを言いたかったんだった。
そして私は、この作品を見ながら中屋敷さんのインタビューを思い出していた。

中屋敷:演劇界の現実がだんだん明るみになりつつあるんですよね。劇団を維持するために何人動員しなければいけないかとか、俳優が食べるためにどういう仕事をしなきゃいけないかとか。まあ、世の中の人たちがうっすら想像しているとおりの、悲惨な現状です。でも「アーティストはお金がなくてかわいそうですね」で終わるんじゃなく、業界人同士で傷を舐め合うのでもなく、この閉塞した状況をぶっ飛ばすような話をしたい。

「悲惨な演劇の状況をぶっ飛ばしたい」中屋敷法仁インタビュー - 舞台・演劇インタビュー : CINRA.NET

アマノのセリフに「イマジネーションを武装した」という言葉がある。
劇中、子どもたちは「戦争ごっこ」に始まったイマジネーションを武器にして、本物の戦争に身を投じていく。
イマジネーションが、演じるという行為が、誰かを傷つけ、誰かを救い、誰か殺す力を持つ。演じる自分を信じるだけで、イマジネーションはとてつもない力を発揮していく。
私は、この作品に「閉塞した状況をぶっ飛ばしたい」という意志と想いを見た。劇場という限られた空間で行われる演劇が、その閉じた世界から日常へと飛び出して、何かを変えていくかもしれないという希望を見た。現実を芝居で呑み込んでやろうという気概を見た。見たような気がした。
イマジネーションは、時に暴力となり狂気となり猛威を振るう。その力が現実に及ぼすことは決して良いことばかりではない。それは、演劇を愛する観客の喉元へ、鋭く突きつけられる刃のような「現実」である。
でもこの作品を見た私たちは、その力の強さも恐ろしさをそうして知った。全容は捉えきれずとも、そういう側面があることだけは改めて、この身をもって知らされた。
演劇というイマジネーションを目にした観客は、その強さと恐ろしさを知った上で、劇場の外へと、日常へと挑んでいく。時にそれを、それぞれの形で武装することもできる。その虚構の武器を手にした人すべてが、プラスの方向へ向かうとも限らない。けれども、私たちは、確かに、その演劇を見る前とは違った人間になっている。*4


私は、作品が一応の幕を引いた今も、まだどこかからアマノジュンヤの視線を感じている。彼はまだ演じている。何者かになった彼の、何者かの目で、私をどこからかじっと「観ている」ように感じている。彼の作り上げた世界の中で、私がどんなイマジネーションを武装して、現実と戦うのかを彼は「観ている」のだ。彼の世界の「演者」なのか、それとも「鬼」なのか、それを見極めている。

観客として、芝居を「観る」だけではなく、何を信じ、何を「観る」のかを選択する。そして、それを観た私たちはそれぞれに違うものを得て、変わっていく。それを含めた世界のすべてが、現実そのものが、まだこの世界のどこかで演じ続けているアマノにとっての「演劇」なのかもしれない。

というところまで書いて、パンフレットの中屋敷法仁分裂インタビューを読みました。
演出家中屋敷さんの言葉にうんうんなるほどと頷きながら、この話を締めようと思います。


いまはとにかく、ハイキュー‼︎という作品を中屋敷さんがどう作り上げていくのか、そして玉置くんがライチでどんなタミヤを演じるのか、そればかりが楽しみな演劇人生でございます。

*1:私が観たのは2015年再演です。

*2:最初の認識→ 観客が座っている客席=客席(非日常)/ テント=客席と舞台を覆う劇場の壁(内:非日常/外:日常)/ 役者が立つ板の上(板の上にある舞台含む)=舞台(非日常)/ テントの外=劇場の外(日常) テントの壁が取り払われたあと→ 観客が座っている客席=客席(非日常)/ テント=舞台の中の舞台(非日常)/ 役者の立つ板の上(板の上にある舞台含む)=舞台の中の舞台(非日常)/ テントの外=舞台(非日常??)

*3:柿喰う客の作品は「これをもちまして終演でございます」という言葉が繰り返されることできちんと幕が降りる場合が多かった。劇場の外に出るだけで、私たちは一瞬で日常に戻ってくることができた。

*4:中屋敷さんが誰にも見せない前提で書いた作品だと言っていたのも、彼が若い頃にしたためた作品「フランダースの負け犬」に似通ったところがあるからではないだろうかと穿ったりもしている。でも、だからこそ、この作品が「10万人動員宣言」と共に打ち出されたことに私はとても納得している。