推しのATMになりたい日常

推敲しない女です。

閑話――私がモンペになる時

時折ふと「事務所が推しをどう売りたいのか分からない」などというモンペ的(と言う表現が正しいのかどうかは分からない)発言をしてしまう事がある。
冷静に考えると「お前は推しのなんなんだよ」とも思うのだが、もう無性に不安になったり腹が立ったりする事が、まああったりもするのである。かといって、常にそんな風に思っている訳でもない。じゃあ、何故ふとそんな思考に陥る事があるのか。
私の場合は「推しの芝居や出演作が、自分の感性や価値観と合致しないとき」モンペ的発言をしがちだなと思う。
通常、チケット代は、その作品を観る対価として支払っている。例えば、推しの関係ないところで観た作品が、自分の感性や価値観には合わない作品だったとき、作品の価値+自身の経験値に支払ったものとして考えることが多い。
それが、もし推しが出演する作品だった場合、チケット代は推しへの投資になる。推しが出ているであれば、例え好きでもない作品でも観に行きたい、という時なんかはもう最初から投資の気持ちだ。
作品の対価としての支払いが、推しへの投資に変わると、その場での観劇欲的なものは結局満たされず、その先へ持ち越しとなる。将来的に私が好きな作品で返ってきたらいいな、と未来の彼らの作品に期待する。あるいは作品の外の活動(私の場合は認知・ファンサというより、演じる以外の仕事を指す)に、見当違いとわかっていながら見返りを求めたりする。
そういう時だ、ついモンペ的な発言をしてしまうのは。本当に、この先私が観たいものが観られる日が来るの?推しはそれを見せてくれるだけの役者なのに、それを観せてくれる舞台は用意されるの?事務所は彼をどういう役者として売っていきたいの?と。私が、私の、と言っているあたり何とも自分本位である。
よくよく考えれば、ただ単に自分の嗜好や価値観と彼の仕事が合わなかっただけなので、事務所がどうこうとかそういうことではない。そもそも自分が彼の仕事のターゲット層ではなかっただけである。だが、日頃推しに盲目になっていることがまあ多く、自分自身の価値観を変えようとも思わないので、まず推しや自分以外の部分に、その合わない原因を見つけようとする。それが続いて、ようやく、ああもしかして私の観たいものと彼の仕事の方針が違うんじゃないかと気付く。
最近は、そもそも私個人の価値観だけで判断した「合わない」の原因を他へ求めるのもおかしな話だし、でも趣味なのに苦しい思いをするのも面倒だなあと思って、推しへの投資だと言い聞かせながら自分の嗜好に合わない作品へ通うことをほとんどしなくなった。その劇団だからという理由だけで某劇団に通い詰めるのを止めたのも、結局自分勝手なモンペであることに疲れてしまったからである。もちろん、これは私の嗜好と価値観に合わなかったというだけで、彼らには何の非もない。
推しのATMになりたい、というのは、彼らになら何でもかんでも金を支払いたいというより、推しが提供してくれるエンターテイメントに対価として相応しいだけのお金を払いたいという意味だ。私が推している役者は、私の感性や価値観とうまく合致した作品に出演することが多いので、その気持ちになれることは割と常に保証されている。チケット代以上に私自身が価値を感じる作品なんかには、もっとお金を払わせてくれ!と思う。もし、そんな時に、その推しが自分とは合わない作品へ出演することが決まったら、間違いなく通うと思うが、それは先への投資というより、いま既に超過分未払いの気持ちだからである。
金、金、言いすぎている感があるのは貧乏性の性だが、要するに、観劇は趣味である。推しを推すのも趣味である。自分のための活動だ。事務所の方針がどうこうという話をするのも楽しいので引き続き素人目に色々と考えたいなあと思うけれど、自分が辛くならない程度で留めておきたいなと思う。