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推しのATMになりたい日常

推敲しない女です。

『オーファンズ』を観て――兄として、弟として、父として、家族として

オーファンズ大千秋楽、見届けてまいりました。
もともと2公演しか押さえていなかったのですが、一回観たあとに即座に東京公演と神戸まで公演を増やして計4回観たのですが、正直もっと観たかった。
色々な方の感想を読んで、ああこんなにも感じることが違うのだなあと思いつつも、私も私なりに主観に満ち満ちた感想をつらつらと述べていこうと思います。

アメリカ・フィラデルフィアにある老朽化した長屋。そこが彼らの居場所だった。

誰も知らない、閉ざされた世界に暮らす兄弟、利発ながら凶暴的なトリート(柳下大)と天真爛漫なフィリップ(平埜生成)。

親のいない二人は、トリートの盗みで日々の生計を立てていた。

ある日、トリートはバーでハロルド(高橋和也)と出会う。金持ちと思い込み家に監禁、誘拐を目論むが、ハロルドは意に介さず、トリートに自分の仕事を手伝うように持ちかける。

奇妙な共同生活の中で二人に富と理性、教養とともに、生きる道を教えていくハロルド。家から出ようとしなかったフィリップは自分が住む世界を知り、トリートは人との繋がりを感じるようになる。

大きな孤独と小さな温もりを分かち合う三人の孤児たち(オーファンズ)に訪れる、思いもよらない結末とは・・・

オーファンズ -Orphans - |2016年2月上演|ワタナベエンターテインメント

公式からの引用で恐縮ですが、こういう筋書きの三人芝居です。


◾︎トリート/演・柳下大

パンフレットで、大くんが「トリートにとって、フィリップは支えでもあり、救い」と語っていました。
幼い頃に父親が蒸発し、母親も亡くして、トリートはフィリップとともに天涯孤独の身になります。
二人に残されたのは、フィラデルフィアにある二階建てのテラスハウス。どこかに消えてしまった父親の影は舞台上にはなく、かわりにクローゼットにはまだ母親の匂いがする服がたくさん詰まっています。
その頃のフィリップはまだ一人では何も出来ない赤ん坊で、しかも(それがいつのことかも、それが果たして事実かは分からないけれど)花粉のアレルギーで、顔が腫れ舌が腫れ、窒息しそうになったことがある。
トリート自身も、きっと社会に出るということも働くということもまだ知らない幼い子どもだったに違いありません。けれども、母親の残り香で腹が膨れるわけでもない。トリートが守ってやらなければ、弟はきっと死んでしまう。生きるために、弟のために、彼は孤独に社会へと踏み出していきます。
親のない、世の中を知らない子どもに、社会が大人がどれほど冷たく、無慈悲だったのか。いまの恵まれた日本を生きる私には想像でしか分かりません。けれども、トリートは、社会からの冷たい視線に晒されながらも、盗みに手を染め、ナイフで身を守りながら、必死にフィリップを育てていきます。
時には、劇中でトリートが言ったように、口にするのも憚られるような言葉で罵られたり、暴力を振るわれたこともあったことでしょう。留置所にも何度も入れられました。きっと、親のいる子どもたちが普通に過ごしてきた青春も彼にはなかった。
「フィリップを守る」ということは、兄としてトリートに課せられた義務であり、そして生きる意味となり、世間から罵られても盗みと暴力を続けていく自分を正当化し(というと嫌な表現ですが)彼の心を守る盾になったのだと思います。フィリップを守れないこと、死なせてしまうこと、失うことは、トリートにとって死も同然だった。だから、盗みも暴力も、彼が生きていくためには必要なことだった。それを止めるわけにはいかなかった。トリートはフィリップをテラスハウスに幽閉し、外の世界から切り離します。それがフィリップを失わないための、死なせないための、最善の策だと信じて。
劇中フィリップが母親の面影を追うたびに、トリートが冷たく当たったり、激昂していたりしたのも、フィリップを守ってきたのは腹の足しにもならない母親の思い出などではなく自分であるという誇りを傷つけられるからという理由もひとつにあったのかもしれません。そう思うと、トリートがどれほどの思いでフィリップを愛し、守ってきたのかが痛いほどに伝わってきます。
けれども、その想いはフィリップに伝わるどころか、抑圧として、フィリップを恐怖させてしまいます。それが、トリートにも分かる。しかし、トリートにとっては、盗みと暴力でフィリップを守ること自体が、彼への最大の愛情表現であり、それ以外の方法を知らないのです。幼い頃からずっと、そうして彼を愛し続けてきたから。

そこに現れたのが、危ない仕事で大金を稼いでいる中年男・ハロルドでした。彼はふたりに世界を、社会を教えようとします。盗みや暴力ではない、「励ましてやる」という愛情を教えます。
けれども、トリートにとって、彼が教えることはすべて、自分が今まで正しいと信じてきたことを覆すことだったのではないかと思います。トリートにとって、フィリップ以外の世界は、社会は敵だった。彼らに抗い、生きていくためには、感情を爆発させて、暴力に頼るほかなかった。それが彼の「正義」だった。それが、ひいてはフィリップを守るということだった。
トリートは、ハロルドが教えることが社会を生きるために正しいことだと頭では理解しているのかもしれません。しかし、それを信じてしまえば、今までの自分を、盗みや暴力に手を染めて、すべてを投げ出してまでフィリップを守り続けてきた自分を、否定することになる。
今までひとりきりですべてを背負ってきたトリートの心に、ハロルドの言葉ひとつひとつがナイフのように突き刺さっていくのが見えるようでした。「感情を抑圧しろ」「節度を知れ」それは、すべてトリートがトリート自身の人生を生きるために必要なことばかりです。フィリップを守ることそれだけを生きがいにしてきたトリートに、ハロルドは根気強く、自分のために生きることを説き続けます。
ハロルドから課せられたテストのあと、家を飛び出したトリートは泥酔して家に戻り、そしてフィリップが線を引いた本と赤い靴を見つけます。フィリップは、自分の力で歩き出そうとしている。フィリップが自分を必要としてくれている、自分がいなければ生きていけない、それだけが心の拠り所だったのに。それが、トリートにとっての生きるということだったのに。今まで見えないふりをしていた現実を目の前に突きつけられて、トリートはフィリップが自分を置いていってしまうかもしれない恐怖に震えます。
戻ってきたフィリップは「トリートは何も教えてくれなかった」と、何度も口にしました。でも、トリートはきっと、それが彼に教えるべきことだとは知らなかったし、思いもよらなかったのではないかと思います。トリートも、幼くして社会に放り出されたひとりの子どもであったから、彼を守ること、そしてふたりで生きることだけで精一杯だった。それが、一番に自分がすべきことだと信じていた。
トリートはフィリップと言い争う中で、母親の服を床に叩きつけながら「俺がおまえを育ててたときに、あいつは何をしてた」と吐き捨てます。その言葉は、ハロルドに向けられると同時に、きっと両親にも向けられていたのだと思います。
彼は、両親よりもずっとそばで、フィリップを守り、愛してきました。けれども子どもだったから、フィリップが自立してひとりで生きる道を導くような母親にも父親にも決してなれなかった。「何も教えてくれなかった」とまっすぐにトリートを責めるフィリップの言葉は、フィリップにしてみれば当然の権利の主張であったけれど、トリートにとっては何よりも辛く苦しかったのではないかと思います。私も一番聞いててつらかったです。

ハロルドが死んだとき、トリートは彼の手に初めて触れました。それまでトリートは、人に触れられることを極端に恐れ、怯えているようでした。それは、触れられることで確かに愛情を感じ、同時に自分の愛情表現を否定されるように思ってしまうだけでなく、もしかしたら彼には母からそうして優しく触れられた記憶があるからなのかもしれません。その愛情に、縋りたくなってしまうから。それを失うことが恐ろしいから。今までフィリップを守るためだけに生きてきた、その張り詰めていた糸が、ぷつりと途切れてしまうかもしれないから。
初めてハロルドの手に触れて、トリートは強い悲しみを抱きます。けれどもそれを何と表現するのか、どう表現したらいいのか分からない。体の内で暴れまわる感情に身悶えながら、ハロルドに「置いていくな」と縋りつく姿が痛々しく切なかった。
こう考えると、トリートはもしかしたら父親や母親に「置いていかれる」ということが、トラウマのように心の傷として残っていたのだろうかと思います。幼かった彼は、フィリップを守らなければならなかったから悲しみに浸る間もなかったかもしれない。あるいは、いなくなった両親に怒りすらむけて、悲しみから自分の心を守るためにフィリップを守るというすべを選んだのかもしれない。

トリートは、不器用で歪んだ愛情を注いでいたというより、愛を伝えるすべを知らない幼い子どもだったのだなと思います。生きるために、フィリップだけを生きがいにして、本当は弱くて寂しい心を押し込めて。可哀想で、愛おしくて、けれども懸命に生きる子どもでした。
最後にフィリップに抱き締められたトリートは、声もなく泣き、震えながら、恐る恐るフィリップの腕に触れます。彼は、自分が今までしてきたことの意味を知り、触れられることで伝えられる愛を知り、失うことの悲しみと恐怖を知り、もしかしたら今までの自分が、守り大切にしてきたものが、崩れていく音を聞いたかもしれない。
けれども、彼の未来には、舞台上にひとすじ差した照明のように、それでも生きていく姿が見えました。か弱くて守るべき存在だったフィリップの手が、大きくて温かいことに気付いた彼が、これからどう生きていくのか、私は1980年代フィラデルフィアの彼らのボロくて小さな住まいに思いをはせるばかりです。

それから、柳下大くんについて。
元々若手俳優沼にはまった一番のきっかけが大くんだったので、いま推している一人である生成くんとの共演と聞き、非常に楽しみにしていました。
パンフレットの対談で、生成くんが「情熱を自分でおさえているようなイメージ」「秘めているものがたくさんある」と大くんのことを表現していました。(ラジオやインタビューでは大くんの第一印象は「怖い」だったところから考えると、よほど惹かれる部分があったのかしらと思います。)私が大くんのお芝居に魅かれる一番の理由は、その、秘めた感情を彼の役にも感じるからです。
以前に書いた記事で、安西慎太郎くんのお芝居について「生々しさ」という表現を使いましたが、大くんのお芝居にも、そのときとは違った意味で「生々しさ」を感じます。大くんの演じる役には、彼がそれまでの人生で積み重ねてきた感情があるように思います。それが彼の体の中で息を潜めたり、脈打ったり、暴れまわったり、溢れ出したりする。特に私は、彼の泣くお芝居がすきです。彼が零す涙には、その役それぞれの感情の色が滲んでいます。その感情が、観ている私たちにも染み渡ってくるような、そんな力があります。今回は、「いつも心に太陽を」ぶりの柳下くんのお芝居でしたが、今までから更に温度を上げた熱量を感じて、ますます目が離せないなと思いました。


◾︎フィリップ/演・平埜生成

トリートの話では筋を追いながら取り留めもなく書いてしまったので、こちらはもう少し絞って書きたいと思います。
フィリップは、トリートに幽閉され、外の世界を触れずに生きてきたがゆえに、物事を知らず未熟に育ちました。兄からの抑圧と暴力に怯え、フィリップにとっては彼だけが絶対的な存在でした。
素直で、純粋な性質の彼は、時折息をするように嘘を吐きます。(そのことには、生成くんもパンフで語っていました。)
テラスハウスの中だけしか知らないフィリップにとっては、窓の外に見える景色もテレビの中の出来事も、すべて自分の世界の外側にあります。彼にとっての世界とは、テラスハウスの中と、トリートだけでした。
彼は、窓の外に毎朝見える男の茶色い紙袋を見て、きっとピーナッツバターサンドを作るのだと想像します。それが果たして本当かどうか、フィリップには永久に分からない。確かめることもできない。けれども、分からないからこそ、彼の中でピーナッツバターサンドは真実になれる。だから、彼はピーナッツバターサンドを真実にする。分からないこと、知らないことは、彼にとっては、もしかしたら途方もない恐怖なのかもしれません。
彼は想像を真実にするために嘘を吐く。自分を守るために嘘を吐く。それは唇から言葉になった瞬間に、彼の中では嘘ではなく真実になる。
母親についての記憶もそうです。赤ん坊だったフィリップは、トリートに「母親の手だけは覚えている」と言いました。けれども、赤い靴を履いたシカゴの女の話をするハロルドには、母親は金髪のブルーアイだと断言する。その靴が、母親のものであるということを真実にするために。
そのとき、フィリップは母親はフィラデルフィアで死んでいるからシカゴの女ではないのだと落胆してハロルドに告げました。けれどもハロルドは「そんなんどうだっていい」と言い放ちます。ハロルドが意図した意味とは違っても、その言葉は、事実がどうかより、真実をどう捉えるか・自分自身がどう解釈するかが大切なのだということをフィリップに示唆したようにも感じられます。街灯に太陽の光が灯るように見えるという感性を大切にしろと言った時もそうです。

ハロルドはフィリップに、トリートが与えてくれなかったものを与えてくれました。触れ合うことを教え、テラスハウスの外の世界を教え、そして、彼の感性や感情や彼自身を否定することなく受け入れます。
フィリップは、ハロルドを通して、愛情を知り、靴紐が結べなくてもローファーを履けばいいと知り、地図を得て自分が広い世界のどこにいるかを知りました。毎朝窓の外を歩いていた男が紙袋に何を入れていたのか知るすべを得ました。自分が、もうアレルギーに怯えることなく、どこへでも行けることを知りました。そして、自分の感性や感情が決して間違いではないことも知り、兄が絶対的に正しい存在でないことも知ったのです。
トリートに隠れて新聞や本に線を引いて言葉を調べるほど知ることに飢えていたトリートは、彼が教えるすべてを吸収し、確かな力にしていきます。想像と嘘で補い、怯えながらにしか語れなかった真実を、彼は自分の力で語ることができるようになりました。トリートの言葉の何が真実かを、自分の力で見極められるようになりました。
世界を知り、自分自身の力を得たフィリップにとって、トリートは、テラスハウスという小さな世界の絶対的な支配者であり、抗うべき存在であり、相容れない存在に見えたのではないかと思います。(でもトリートを完全に悪人だとも思えないのは、彼が確かに自分を守ってきてくれたことを「覚えている」からだと思うと涙ちょちょぎれ案件ですね。歯がゆい〜)
フィリップの言葉は、よどみなく、純粋で素直なまま、残酷なほどまっすぐにトリートの心へと突き刺さっていきました。フィリップは、もしかしたら、それが彼を傷つけることだということは、知らなかったかもしれません。彼の心を抉ることだとは、まだ知らなかったかもしれません。なぜなら、このときフィリップは、まだトリートの心の弱さを知らないから。真実をつきつけることが正しいと信じているから。
彼は、それをハロルドの亡骸に縋りつく兄を見て初めて知ったのではないかしらと思います。悲しみを表現する言葉を持たない兄を見て、置いていくなと言って縋りつく彼を見て、フィリップは、トリートがどういう気持ちで「もうトリートの兄貴はいらないんだな」と言ったのかを、少しだけ理解したのだと思います。彼の悲しみを、弱さを、少しだけ知ったのだと思います。きっと、トリートの愛情のすべてを理解しきれたわけではない。それでも、強くて、恐ろしくて、理不尽に権利を奪ってきた兄の背中が、フィリップの目にはひどく小さく見えたのではないでしょうか。そして、その肩が励ましを求めていると、愛されることを求めていると、きっとハロルドがフィリップにそれを見たときと同じように、感じたのではないかと思います。暴れるトリートの体を抱き締めて、ふと脱力したトリートがフィリップの腕にそっと触れたとき、フィリップはまるで母親がそうするようにトリートの体を優しく、優しくたたきました。
大切な人の弱さに触れることで、時に人は強くなれることがあります。幼い頃のトリートは、か弱い弟を見て強くなろうとしたけれども、幼いがゆえにその強くなり方が分からなかった。自分の心を押し込めることで、強くなろうと、強く見せようと必死で生きてきました。けれども、フィリップはもう彼を守るためにどうすればいいのかを、きっと知っています。ハロルドに教わった愛するということを、トリートが受け入れたくても受け入れることが決してできなかったその愛を、今度はフィリップが彼に伝えてあげる番がきたようにも思えました。

そして、平埜生成くんについて。
生成くん自身も以前語っていたとおり、「双牙」以降の外部舞台出演を経て、彼のお芝居はどんどんと進化しているのを感じます。私は大くんも生成くんもテニミュ後にはまった新参なので、まだまだ分かっていないことも多いと思いますが。
それまで劇団プレステージアミューズ若手舞台で観ていた生成くんに対して、私は人の目を惹きつけるカリスマ性というか引力は絶対にあると思いつつも*1上手いと特別感じたことはそれほどなかったのですが、それが「あ、いいお芝居する役者さんだな」と思うことがとても増えました。なんというか潜在的にあった魅力に、実力と自信が上乗せされて、それでもまだ「これでいいのか」と常に自身に問い続けているような。
私が強くそれを感じたのははやっぱり蜷川幸雄演出の「ロミオとジュリエット」でしょうか。人によって評判がかなり分かれる作品でしたが、あの作品を観て、生成くんの芝居の印象がガラリと変わりました。以前からちょっと気になっていた彼の芝居の癖が抜けて、役として生きる姿を見せてくれたなと思ったロミジュリから、今回はそれに「彼らしく」役を生きるというお芝居が観られたように思います。
フィリップという役も、私が抱く生成くんのイメージに近いなと感じました。それは、無知で未熟だった彼が知っていく過程が、というよりも、自分を知り、誰かの弱さを知り、強くなっていく様が、です。
次作のDISGRACEDも、非常に楽しみです。こちらも千秋楽が兵庫な気配を察したので、その際はできればまた遠征したいなと思っています。


◾︎ハロルド/演・高橋和也

ハロルドの存在について、パンフの対談で高橋さんは「天からの使い」かもしれないといい、生成くんはトリートやフィリップが作り出した虚像の「おばけ」かもしれない、と語っていました。
ハロルドについて本編で明かされていることは、ほんの僅かです。株取引で危ない事をやっているらしいこと、未亡人を残したシカゴから追われて逃げてきたこと、孤児だったこと。トリートとフィリップのふたりの兄弟に比べて、ハロルドについてわかることは少ししかありません。
ハロルドが「いつまでもずっと、フィリップ、そばにいる」と言ったのは、「デッドエッドキッズには何でも差し出す」と言ったのは、それほどまでに二人に肩入れする理由はなんだったのでしょうか。
フレッド、という彼の孤児院時代の仲間の名前が、彼の会話に二度出てきました。一度はトリートに節度の話をしたときに、そしてもう一度は息をひきとる寸前に。
死ぬ直前にハロルドは、フレッドが孤児院のドイツ人の料理人の目を盗み食料を奪ったことを語りました。(このへんの記憶が曖昧なので違っていたら申し訳ないです)彼はそのあとそのドイツ人に袋叩きにされたけれども、彼の勇姿を孤児たちは窓に張り付いて眺めていたと。同じく孤児だったハロルドにとって、フレッドはヒーローのような存在だったのだと思います。節度を知らない男だったけれども、そうして何かのためにすべてを投げ出すことができる彼に、憧れのようなものを抱いていたのかもしれません。
フレッドは金のために自分が生きるのに必要な新聞さえも売って、亡くなってしまいました。その話は、トリートに「節度を知ること」が己が生きるためには必要であると説く際に語られます。
ハロルドは、もしかしたらフレッドにもし自分の新聞紙を差し出すことができたら、と考えたことがあるかもしれません。もしかしたら、フレッドが死んでいく様を眺めながら自分の無力さを思い知ったかもしれません。そのとき、ハロルドは孤児院の英雄であったフレッドにも、節度を知らないというそれだけで、無慈悲に死が忍び寄ることを知りました。
だからハロルドは、暴力的で感情を抑えることができず節度を知らないトリートを救いたいと思ったのではないかとも思っています。彼を、彼らを救うことは、ハロルド自身を救うことでもあった。トリートのような凶暴な人間が好きだというのも、そういう人間が秘める強さと弱さを知っているからでしょうか。
ハロルドがふたりの前に現れたのは、まさしく神の手引きのような運命だったのかもしれません。彼の大きな掌から伝わる励ましの愛は、まさしくふたりの人生を変える奇跡だったかもしれません。けれども、それは同時に人間らしく様々な後悔や想いの狭間にいたハロルドにとっても、己を救う出会いであったに違いないと思っています。

そして、高橋和也さんについて。
初めてお芝居を拝見しました。あたたかい父性に溢れた、大きな方でした。若手ふたりの芝居を受け止め、作品をより高みへ昇らせるために彼らに優しく手を添えているような、この作品にとっても父のような存在だったように思います。主演三人のアフタートークショーの際に、トリートにナイフを振りかぶられるシーンのお話をしてくださったのが印象に残っています。どうしても反射的に体が引いてしまうけれども、演出家の宮田さんにハロルドはそれに動じる男ではないと言われ、どういう気持ちで彼らに接すればいいのかと考えられたとおっしゃっていました。そんなときに高橋さんご自身のお父様が、もし自分であれば「決して当たらないと信じているから動かない」と言った話を聞いて、ハロルドの気持ちが腑に落ちた、と。(すべてニュアンスです)血は繋がらないけれどもトリートやフィリップに対してハロルドは本当の我が子だと信じて接していたのだと、そのお話を聞いて改めて感じました。
大千秋楽カーテンコールの挨拶で、すべてを出し切った大くんと生成くんに、高橋さんは感極まった様子で、しかし力強く声をかけていました。もう大とも生成とも顔をあわせることはありません、けれどもまた一緒に芝居ができる日を楽しみにしていますと、そう言った趣旨のことを言って(私もとにかく涙が止まらずにいたので正確ではないかもしれませんが)、両手を広げました。まず隣の大くんの肩を抱き、それからふたりで少し離れたところにいた生成くんを呼び寄せました。三人で円陣を組むようにして抱き合う三人は、まさに血の繋がらない家族のようでした。高橋さんは、ふたりにとって本当の父親のように大きくてあたたかくて憧れの存在だったのだと思います。


三人のお芝居は、まるで化学変化を見せるように毎回観るたびに違った顔を見せてくれていました。
大くんの感情が爆発し、それに応じて生成くんが異なる反応を見せ、そんなふたりを高橋さんが大きく広げた両腕で抱きとめる。千秋楽のトリートとフィリップの掛け合いは、いま、その瞬間、彼らが感じた想いがそのまま重なっていくように、リアルで、生々しかったです。素晴らしいキャスティングでした。
そして、音響や照明もとても素敵でした。個人的に好きだったのは、フィリップが外に出るシーン。不勉強でテレビから流れていた作品を知らないのですが、そのテレビの音をBGMにフィリップはハロルドに導かれてドアの外へと踏み出します。そのときの音が、まさにどこか新しい場所へと進んでいく彼にぴったりの音なんですよね。原作映画のどのシーンなのか、分かる方がいらっしゃったらぜひ教えていただきたいです。

ここ最近、「マーキュリー・ファー」、「消失」、「僕のリヴァ・る」などいくつか兄弟ものの作品を観てきましたが、その中でも特に好きな作品であったと思います。
カーテンコールで、ハロルドに励ましてもらうことが叶わなかったトリートが高橋さんの手で大くんとして励まされたことも、泣き崩れてしまいそうな生成くんを高橋さんと大くんが抱きかかえるようにして舞台上に連れてきてくれたことも、ふたりを見守る高橋さんの温かい瞳と両腕も、すべてひとつの作品として私の心に深く刻まれました。
観客の心に深く残る、素晴らしい作品でした。この出会いを、私はこれから先もずっと大切にしていきたいと思って止みません。


話は変わりますが、今回の作品の客席をみながら、改めて、いまこうした作品を売ることが非常に難しい時代なのであると痛感しました。
2.5次元舞台などの誰もが知っている原作の舞台化作品は、実際にその舞台が良いか悪いかは別として、事前に「こういう作品が原作である」ということが分かる安心感があります。特に若手俳優ファンの観劇層にとって、キャスト以外の大きなフックのひとつとなるのがこの原作があるかどうかだと思います。しかし、彼らがそうでない作品と出会う時、それを観るかどうかはとてもシビアな目で選別されているのかもしれません。
観れば面白い、読めば面白い、プレイすれば面白いという作品は、最初にどう売り出すかが非常に難しいコンテンツなのだなあと実感します。観に行きたいと思っていたけれど何となくチケットを取らなかったという声を今回多く聞きました。
そんな人たちの心を動かしたのが、周囲の声や評判だったように思います。クチコミを見て急遽チケットを取ったという人は私の周りだけ見ても、他の作品よりかなり多かったです。クチコミも、出演者の関係者の感想はもちろんですが、より身近な一般客の声の方がより影響力があったようでした。情報を入手することが容易い時代だからこそ、溢れかえる情報の中から何かを選ぶ際には、キャストも内容も分かりやすいものがまず一番に選ばれます。そして、その次に選ばれるのが、周囲の信頼できる人たちから勧められたものなのかもしれないですね。
分かりやすいものが選ばれるからといって、分かりやすいものだけが残っていくのもなかなかに寂しいものです。どちらの作品にも、それぞれ良さがあり、上も下もありません。とはいえ、こうした演劇も商売である以上、観客に選ばれるものが残り、それ以外が振り落とされていくのも道理です。分かりやすさはそれだけで武器になります。けれども、そうでない作品が商業的に選ばれていくためには、それ以外の何かの力が必要です。それは、企業側のプロデュース方法かもしれないし、プロモーションかもしれないし、客席に人を呼び込む力のある観客の声なのかもしれません。つまり、我々にも、その種の演劇作品を商業的に生かす力が確かにある。かも、しれない。

……というわけで、面白い作品に出会ったときは、できるだけ公演中にいち早く感想をつぶやこう!と思った次第でございます。
今回のブログも、もう少し早くアップすればよかったなあと反省しつつ、このへんで締めたいと思います。

*1:余談ではありますが、SUPERハンサムLIVE2013オーラスで主人公・ルイを演じる生成くんのマイクがラストのもっとも重要な台詞の時に水没して使えなくなり、彼が咄嗟にマイクを下ろしてその台詞を発するという場面がありました。そのとき(彼はもちろん悔しかったでしょうが)、これは起こるべくして起こった奇跡だったのかもしれないと思いました。あの瞬間、あそこにいたすべての人が、生成くんに強く惹きつけられたのではないかと私は思っています。