推しのATMになりたい日常

推敲しない女です。

鈴木拡樹という役者――刀ステを観て

舞台「刀剣乱舞」ライブビューイング観てきました!
作品としても面白かったのですが、何と言っても鈴木拡樹さんのお芝居がすごかった。本当にすごかった。推したいと思ったというより、怖いほど魅せられてしまった。ので、推しではない彼のことを刀ステの印象だけで綴ってみます。
ツイッターと重複している内容もございますが、ご了承くださいませ。

そこそこ演劇は観ている方だと思っておりますが、実はなかなかご縁がなく鈴木拡樹さんのお芝居を観たのは今年の「僕のリヴァ・る」が初めてでした。
曲がりなりにも若手俳優厨なのでお名前だけは日々拝見しておりまして、「鈴木拡樹が出る舞台のチケットは激戦必至」という噂は耳にしていたので、戦々恐々としながらも何とかチケットを確保し観劇することができました。
初めて見た鈴木拡樹さんは、お芝居が上手くて、ビジュアルも爽やかで、ぱーんと場内に響き渡るように通った良い声で、何でも器用に卒なくこなす方という印象でした。(ファンの方のツイートで、後から「不器用」だと自称していると知りました。)良い役者さんだなと素人ながらに感じました。でも、多分それだけじゃないんだろうな。という確信がありました。
芝居が上手くて、ビジュアルも声もよくて、でもそれだけでは多分人を狂わせるほどの人気は出ない。そういう俳優は他にも幾人もいて、その誰もが魅力的であって、けれどもそれだけでは突出した人気にはなりえない。私が見た役者「鈴木拡樹」以上の何かを、彼は持っているのだろうと。
その何か、が、今回の刀ステで少しだけ分かったような気がしています。

鈴木拡樹さんが原作付きの、いわゆる2.5次元舞台のキャラクターを演じるということは、そのキャラクターが目の前にそのまま原作と同じ姿形で現れるということなのだと感じました。
2.5次元作品キャラクターの演じ方について、役者さんによって、そのキャラクターを憑依させるとか、自分に引き寄せるとか、様々な方法があるようですが、彼の芝居はそのどれもと違っていました。なりきっているでもなく、自分に落とし込むでもなく、舞台上に現れた彼は「三日月宗近」そのものだった。演技力がどうこうとかそういう次元じゃない。そう、別次元、その言葉が彼を観ていると浮かんできました。

三日月宗近というキャラクターは、刀剣乱舞という作品において非常に存在感のあるキャラクターです。ゲームのメインビジュアルには決まって登場し、「刀剣乱舞」とはこういう作品だと知らしめる象徴的な存在でもあります。
付け焼き刃の知識で恐縮ですが三日月宗近は、平安然とした立ち姿や煌びやかな衣装、朗らかでマイペースな性格、「じじい」と自称しながらどこか達観した言葉を紡ぐキャラクターです。天下五剣の一振りで、安定して高いステータスを持つかわり、スマートフォン移植版がリリースされるまでは滅多に錬成できない刀剣として、ユーザーをやきもきさせていたように記憶しています。彼の底知れない謎めいた言動が、オタクの考察欲を擽っていたのも、実際プレイしてみればなるほど確かにと思いました。
やや話がずれましたが、三日月宗近というキャラクターがどうあるかが、そのまま「刀剣乱舞」という作品を決めるような、そんな重要な役どころなのだと思います。

刀ミュで既に今コンテンツの舞台化を観ていたこともあって、果たして鈴木拡樹さんはどういう三日月宗近を見せてくれるのだろうか、とわくわくしながら挑んだライブビューイング。
正直、想像していたものを遥かに超えていました。

そこにあったのは「鈴木拡樹」という人間を一瞬たりとも見せない隙のない芝居でした。2.5次元舞台を観ているとき、「人間ってこんな風に動けるの⁉︎」とか「いまのこの仕草は原作通り!」とか「確かにこのキャラならこういう動きするよね」とか「この役者さんはこういう解釈してるんだな」とか、そうして原作と比較しながら、そこに生まれたズレや歪みに驚かされたり、感嘆したりという瞬間が少なからずあります。
けれども、彼は驚く暇も感嘆する暇も与えてはくれません。生々しさを一切排除したように、ゲームの中にいる三日月宗近のまま、そこにいるのです。
役作りの上で、もしかしたら彼は三日月宗近はどういうキャラクターなのかと悩んだことがあったのかもしれません。けれども舞台上に現れた彼は、その過程を一切感じさせることなく、ただひとつの答えだけを持っていました。
迷う事すら許されず、有無を言わせず、「三日月宗近」という顕現した刀を、喉元に突きつけられる緊張感がありました。彼は三日月宗近そのものとして現れて、その刃先で私たちに挑発するように肌をくすぐってくる。三日月宗近という存在は、役としてではなくキャラクターの存在そのものとして、寧ろ観客を試すように提示される。彼は、ただキャラクターとしてのみそこにいて、自ら観客のいる3次元に歩み寄るというより、私たちの方を0.5次元、彼のいる場所に引き寄せる強い力をもっていました。ここまで来い、という言葉に感覚を支配されて、気がつけば私たちの方から歩み寄っているような、そんな観劇体験でした。人を動かす芝居を、人を狂わせる芝居を、する人なんですね、こわい。

すごく漠然とした、曖昧な話ばかりしてしまっているのですが、彼の三日月宗近を観ていて、具体的にずば抜けて巧みだなと思ったのは「静」の使い方でした。
激しい殺陣でも動きに流されずに、一瞬一瞬止まってみせる。その時の表情や体の置き方が、イラストから想起される三日月宗近そのものなんですよね。
原作のファンは、三日月宗近の平面で静止した姿しか見たことがありません。三日月宗近とはこういう人、と考えた時に頭に浮かぶのは、いつも立ち絵で見ているあの姿です。
なので、舞台上で三日月宗近が動き始めると、どうしても人によって自分が頭の中で思い描いていたキャラクター像と重ならない瞬間が生まれます。立ち絵からは分からない、彼の仕草や動きは、ユーザーの想像力によって補われているので、そこが人によって異なってくるのは当たり前のことです。原作が限られた情報しかないゲームな今作ではなおさらだと思います。
けれども、動きの間に「静」の瞬間を挟み込むことで、それは少し変わってきます。
彼は意図的に止まる芝居を何度も繰り返していたように見えました。普通の人間は、普通に生きていたなら、あんな風に何かをしながら止まる瞬間はそうありません。だから、生々しく、人間らしくそのキャラクターを演じるならば、その芝居はない方が自然です。
それでも、彼は、三日月宗近が何かをするたびに、止まってみせる。その立ち姿があまりに完成されているので、きっと誰の目にも原作と重なってみえたのではないかと思います。
そして、その瞬間の分だけ、観客の頭の中で彼が原作の三日月宗近と重なる時間は長くなっていく。普通に動いている時には、それを重ね合わせる瞬間すらないかもしれない。でも、静止の時間があればあるほど、私たちは彼が三日月宗近だと感じるようになる。そのうちに、その静止と静止の合間の動きのズレや歪みも気にならなくなってくる。寧ろ、ひとつの立ち絵から次の立ち絵へと移る工程として、もっとも自然に、当然に見えてくる。

彼の止まるという芝居は、2.5次元舞台という、平面の2次元コンテンツを原作にした舞台作品には非常に効果的だなと感じましたし、同時に非常に難しい芝居でもあるなと感じました。
だって、その止まった瞬間は、動いていない分、体の置き方や衣装・ウィッグひとつひとつまで、鮮明に観客の目に映ってしまいます。誤魔化しがききません。それを、寸分違わず原作に重ね合わせる、なんて、ナマモノである舞台作品だからこそ、相当な高等技術だと思います。彼はそれを平然とやってのけていた。多分、その陰にはただならぬ努力があるのでしょうが、それを滲ませることなく。

以前2.5次元を特集していたユリイカで「鈴木拡樹は小数点以下でキャラクターを調整していく」という話を読みましたが、その通りだと思います。少しのズレがあっただけで、彼の芝居は成立しなくなる。本当に繊細なところで演劇をやっている方だなと感嘆します。

鈴木拡樹という役者は、2.5次元舞台の怪物だ、と思いました。人を狂わせる芝居をするひとなんですね。こわい。すごい。こわい。

彼のこうした芝居が中心にあると、自然と観客が0.5次元舞台上に近づいてくる。だから周りのキャラクターも、0.5次元分だけ違って見える。こうした舞台作品の中心に立つだけの力が、鈴木拡樹という役者にはある。

私は、散々このブログでも語ってきた通り、もともと生々しさを感じさせる芝居が好きです。だから必ずしもこうした舞台で彼のようにあるべきとは思いません。
でも、鈴木拡樹という役者の引力に、私は抗えない。
今回は「刀」という役どころだからこその無機質さを感じさせる芝居だったかもしれません。でも、もし彼が、私が好きな原作キャラクターを演じる機会があったとするなら、間違いなく私は過酷なチケット戦争にすすんで身を乗り出すのではないかと思います。
「鈴木拡樹」という役者がキャラクターを演じるとき、キャラクターは私たちの目の前に原作そのままの姿で現れる。それこそが、彼の熱狂的なまでの人気のひとつの要因なのかもしれないなと思う次第でございます。