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推しのATMになりたい日常

推敲しない女です。

1年ぶりのブログでハンサム!とドリフェス!の話をします。

ドリフェス!とハンサムの信者みたいなブログなので、アゲすぎ勘弁しろという方はお気をつけください。
※ハンサム=アミューズの若手俳優たちが年末に打ち上げる花火。また、そこに出演しているハンサムな若手俳優のこと。昨年SUPERハンサムLIVEからハンサムフェスティバルに進化しました。
※多分論理は崩壊していますし話があっちこっちに飛びますが、思いつくまま書いてるので、こういうものだと思って許してください。



久しぶりにブログを書きます。
さきほどまでは仙台に、昨日は北海道にいました。こんばんは。

振り返ってみれば、最後に書いたのがほぼ一年前という事態だったので簡単に近況報告をいたしますと、「推しを追って再び海外渡航したり、別の推しの結婚を機に降りたり、推しを増やしたり減らしたりしていた一年」だったわけですが、多分一番大きいのはドリフェス!沼にずぶずぶになってしまったことかなと思うので、今回はそれについて触れようかなと思います。
……とはいえ、ドリフェス!民は結構はてブロユーザーが多いようで、もうドリフェス!はいいぞ的な話は先人たちが素敵な言葉でしたためてくださっているので、なんか、なにかしらそれ以外のことをとりとめなく話します。

私がドリフェス!というプロジェクトに触れたのは、バンナムGとアミューズのオーディション開催のお知らせだったんですが、まあその辺りの話は「こちら」で触れているので割愛します。(いま読み返すと混乱のあまり何を言いたいのか全く伝わってこなくて面白いぞ! その前にアミューズランティスバンナムクリエイティブが業務提携して海外展開するよ!とかいう話を見かけてたので、なんかよく分からないけどドキドキしました。そういえば、また別のオーディション始まってましたね。)
いくつかイベントに行ったあとに、まあしばらく諸般の理由により追えたり追えなかったりだったわけですが、アニメが始まって、ちょっとしてからようやく完全に気持ちを切り替えて、ドリフェス!と推しくんが人生!みたいな生活を送っています。人生何が起こるか分かんねーな!

私がドリフェス!にはまった一番の要因は(もちろんリアドリが大きいんですけど、それと)もう散々語り尽くされていますが、【ユーザー=ファン】というポイントです。

最近ヒットしている複数男子もののソシャゲはプレイヤーがキャラクターにとって特定できる個人であり、かつそれに応じた役割を与えられているものが多いと思います。その役割がキャラクターたちにとっては欠かせない重要なもので、それに対しての責任がゲーム上で発生し、それを果たすことがゲーム性につながっています。そして、その報酬として、普段見ることができないような彼らの裏側や、プライベートを覗くことができたり、そこに自分が入り込むことができたりします。
なので、キャラクターとの一対一の関係を楽しむもよし、恋愛ゲームとして楽しむもよし、主人公の視点からわちゃわちゃを楽しむもよし、ユーザーとしてどのスタンスで楽しむかの選択肢がたくさん用意されていて、実に間口が広いなあと感じています。ちなみに私は主人公の名前をモブにして、わちゃわちゃを楽しむ派です。でも!名前がモブでも!主人公だから!存在感は!消せない!ンンッ!(認知されたくないオタク)

けれども、ドリフェス!は、キャラクターとユーザーの関係を完全にファンだけに絞っています。
そこに何かの責任が発生することもなければ、私たちが彼らのプライベートに介入することもない。ユーザーに見せられるのは皆一律の表の顔だけ。プレイヤーには主人公としての価値観などは一切なく、ただファンのひとりとして、ライブチケットをもぎり、部屋の壁を推しで飾り、ライブに行くための体力を養い、ドリカで服を貢ぐばかり。
それが、先ほどの話に照らし合わせれば、つまりは新規参入の間口を狭めているということもあるかもしれませんが、でも、私にはとても心地よいんです。

それはどうしてかって、そうしてユーザーの立ち位置を定めているところが「アミューズ」が噛んでる企画らしいなあとぼんやり感じたからなのだと思います。そうです、私が箱推し勢です。(そもそも私はTHE GAME 2009あたりで初めてアミューズに触れたのですが、その年のハンサムはチケット戦争に負け、しかも当時の推しは事務所舞台に出ない子で、それほど箱推しMAXで活動してきた訳ではないので、いつまでも新規という大義名分で好き勝手言っています。)

ちょっと話が逸れますが、若手俳優を輩出している事務所は数多くあり、そこに所属するタレント、そのタレントにつくファンにはそれぞれ特色があると思います。
私は、アミューズが毎年開催している年末ライブ(ハンサム)に行くたびに、そこにいるファンに対して「オタク」だなあと感じます。それはいわゆるオタクと呼ばれる漫画やアニメがコアに好きな人たちが多いということではなく、「●●が好きな人は仲間!」みたいな、妙な一体感というかホーム感のオタクみというか…伝わるだろうか……。(私は二重の意味でオタクです)
ハンサムって、ファンの年齢層も服の趣味もみんなバラバラで、一緒に来ている友達同士でさえも全然タイプが違ってたりして、どんな人が多いとかって最大公約数みたいなのが見つからないように思います。
でもいざライブが始まると、あんなにバラバラだったみんなが推し以外の名前も呼べちゃうし、彼らのオリジナル曲のフリとかも何も見ずに踊れてるし、コールもできるし、アンコールで運営側が意図してない形で客席が一体となってオリジナル曲の合唱とかしちゃうし、なんならハンサムが忘年会みたいなところあるし。
普段はそれぞれ別のところで自分の推しを追っかけてるのに、「ハンサム」っていう箱に対して、ファン全員が同じ場所に立ち、それぞれ最大限の熱量で向かっていく一体感があるというか、数年ここにいるともう年末に一度は帰る我が家みたいな。つまり、ハンサムは実質第二の実家です。今年の年末も実家に帰りたいです。

あと、もうひとつ、ハンサムのファンには、これは私の周りだけなのかもしれないんですが、男の子がわちゃわちゃしているのを見ているのが好き、という人が多いような気がします。漫画でいうと『虹色デイズ』とか『君と僕。』とかそういう感じの男子たちというか(実際に、ファンがこれらの作品を漫画として好きかどうかは別だと思いますが)、こう……なんじゃろ、わかるか……?(それは、ハンサムはもちろん、かつての宝石シリーズやFROGSなどの事務所の若手俳優を起用したアミューズの自社制作舞台や、その他イベントなどで、とにかくみんな一緒に仕事してることが多かったから、自然とそういう人が集まってきていだというのもあると思います。最近は、みんな個人個人のお仕事を抱えている俳優さんたちが多いので、個人についたファンの方もいらっしゃって、また違うのかなとは感じていますが)
その、わちゃわちゃしてる男の子たちの姿って、基本的にはステージ上だとか配信番組だとかツイッターだとか向こうから発信される形で届けられて、こちらはただ受け取るだけの状態です。わちゃわちゃの間にファンはいません。つまり、わちゃわちゃを見てる時は、見せられているものの偏りがファンの誰にもないんですよね。(逆に認知されてるされてないとか何とかかんとかとかで人によって見せられるものが変わってくるのが個人の接触イベという認識でいます。)誰かひとりが特別じゃないし、言ってみればみんな特別だし、つまりタレントとの距離が全員ほぼ横並びになれる。そして、そういう形でタレントを見るのが好きだと言う方が、ハンサムのファンには、なんとなくですが多い気はしています。私の周りの話です。

そういうファンが多いことのひとつの理由として、アミューズがタレントをどのように見せてきたかというところがあるのではないかと思います。
たとえばハンサムたちのイベントではよく伝統芸能「キュンキュンさせた方が勝ち!(cv.吉村卓也)」なときめきセリフをいうコーナーというものが用意されています。これ自体は他の俳優さんのイベントでもよく見るコーナーで、特に珍しいコーナーというわけではありません。
アミューズでは、THE GAME2009の『キュンファイDEATHマッチ』という作中でも「学生に扮した俳優がときめきセリフを言うイベント」が描かれました。いまハンサムたちのイベントでこういうコーナーがあると、あっキュンファイだ!と思うくらいにはファンに浸透していると思われる作品です。
この作品の面白いところが、「ときめきセリフを言う」ことが競技化し、魅せるショーとして描かれているところかなと思います。
ときめきセリフを言われる相手役はもちろん登場しますが(どうでもいいですがホラン千秋ちゃんを見かけるたびにキュンファイ思い出します)、彼女たちはあくまで企画側が用意したキャストであり、彼らがリアルにときめきセリフを言って口説きたい恋愛対象は物語世界であってもキュンファイには登場しませんし、ましてやファンの誰かでもない。私たちファンは、そのショーを見ているだけ。
昨年のハンサムフェスティバルでは、この企画を継承したコーナーが行われた際に、メンバーの中から相手役が選ばれました。アミューズくんは、結構これをやってきます。はい。(過去には観客に向けて言ってたこともあるかもしれないですけどトリ頭なのでわすれてますし、もちろんアミュモバや彼らの個人イベントではファンに向かって言うことも普通にあります。)
つまり、基本的にはハンサムな彼"ら"の視線が私たちにのみ向けられるとき、たとえ企画だったとしても、ファン以上の意味は孕みません。それってちょっとマニアックだなと正直思います。私は完全に認知されたくない視界に入りたくないオタクなんですが、みんながみんなそうではないと思うんですよね。
だがら以前アミュモバで『妄想図書館』という企画が始まったとき、ついにアミューズもハンサムたちをメジャーな企画始めたな!という気がしたんですが、よくよくタイトルを考えてみれば『妄想』なんですよね、これ。すごい、現実で私たち個人を口説いてるわけじゃない! 私たちの妄想の中でしか彼らはファンに甘い言葉を囁いてくれない! こんな企画の中だって、私たちはファン以上でもファン以下でもない! サイコー! めっちゃ面白い企画なのでよかったら見てください。

だから、現実で、彼らがハンサムのステージ上から私たちに向ける視線や言葉は、いつだって誰にとってだって一定で一律で、それってまさに我々がファンでしかないドリフェス!じゃん!と思ったわけです。(相変わらず強引なまとめで恐縮です)

ドリフェス!は、多分、ソシャゲ好きな女子万人に受け入れられるコンテンツではないかもしれません。ファンという視点ではない、別の楽しみ方をしたい人にとっては、なかなか面白さを見いだし難いかもしれません。
だけど、いつどこから好きになった人でも、みんなが優劣なく同じ場所から応援できる安心感がある、誰にとっても優しいコンテンツなのではないかなと思います。(古参新参がどうこう認知がどうこう問題を考えると面倒くさくなるので、あくまでも、コンテンツ対ユーザーという視点だけの話にさせてください)

それに、アミューズは、ファンとタレントとの信頼関係というものを重視している会社だと個人的には思うので、ドリフェス!も、きっとそうないんじゃないかなと。故意じゃなく裏切ってしまうことはあるかもしれませんけど。
そう思うのにも、また余談に近しいエピソードがありまして。2015年、毎年恒例だったハンサムが開催されませんでした。
そのとき、アミューズは「今年はハンサムないよ! ごめんね! 来年はやるからね!」って告知を確か(記憶違いでなければ)出してくれたんですが、これってよくよく考えたらすごいことじゃないですか?
だって「やらない」告知って、それ自体が直接何かの利益に結びつくわけではありません。むしろ2015年にハンサムの誰かにはまったばかりのファンからしたら、何の話やねんって感じです。企業として、利益第一に考えれば決して必要のない告知だと思うんです。しかも来年はやるからね!なんて告知、その一年後のイベントだけをとってみれば、一年前に触れられたからって、直接チケットが買えるわけでもなし目に見える形での販促にもならないじゃないですか。
でも、アミューズは告知をした。それは、きっと、ファンの信頼を裏切らないためなんじゃないかなと思います。アミューズという事務所は、ファンがタレントを応援するのに信頼関係が必要なのだと捉えているのではないかなと。
信頼関係を築くことというのは一朝一夕でできることではないけれど、壊すのは簡単です。でも、それがどうしたら壊れてしまうのか、そして壊れてしまうことをどう認識するか、は会社のポリシーの問題だと思います。信頼関係を第一とするか、その時の利益を第一とするか、それに優劣はありません。
そもそも信頼関係を重視したときに会社にとって何の利益になるのか、それはそのときの瞬間瞬間の利益ではなく、そのタレントの先を見通した上でこれからも応援してもらうという無形の利益、ある意味投資なのかなと思います。
私は、自分の好きな役者が、そうやって、未来を大切にしてくれている・未来に投資をしてくれるような事務所に所属していてくれてよかったなと思うし、だからこそアミューズの役者が好きなのかなとも思います。アミューズに思うところももちろんありますが、でも、こういう一件があると、タレントとファンの間にある信頼関係を壊したいわけでは決してないんだろうなとは思えるんですよね。

そして、そういう事務所に所属しているハンサムたちは、その遺伝子を継いでなのか、ファンに対してとても誠実に、感謝を表現してくれます。
そもそも年末のライブは、ハンサムという名前がつく前からずっと、『ファンのための感謝祭』として、開催されています。
そして、そのライブに対して、彼らは、こちらが驚くくらいに真剣に取り組んでくれます。私たちが、推しが出てるなら何でも行くぞ!という気持ちでいたとしても、忙しい仕事の隙間を縫って、より高いクオリティを、より素晴らしいパフォーマンスを追究し、時に真剣すぎるあまりにギスギスしてしまってるんじゃないのかなと思うこともあるくらいの熱量でいてくれます。彼らが考える感謝の気持ちは、感謝の言葉を伝えるだけではなくて、人前に立つ仕事のプロフェッショナルとしてファンを満足させることにあるのだから、なのかもしれません。
推しが出てたって出てなくたって、ハンサムに行きたいと思わせてくれるような最高のエンタテインメントを作り上げてくれる。そのために、血の滲むような努力を、彼らはしてくれる。そして、私たちに客席という定位置を準備して、いつもそこで待っていてくれています。まさに実家。あたたかい。
その実家()の面子で構成されたDearDreamとKUROFUNEだから、彼らはファンのために上を目指す努力を決して怠らないし、ファンを満足させるために何でも果敢に挑戦していってくれます。派手さはないけれど、でも、そういう真面目さと誠実さは、きっと、一度とらえたファンを決して離さない。

ちょっとだけ話を戻すと、ハンサムもドリフェス!も、私たちがファンというだけである以上、彼らに対して何の責任もない以上、私たちがいつ好きになろうといつ離れてしまおうと、それはこちらの自由です。(キュンファイの中で佐藤健が言った「女の子は飽きっぽいからね」というセリフはまさに)
だから、彼らは、ファンを自分たちが提供するエンタメで満足させて、ずっと好きでいてもらうために、努力を重ねてくれます。誰かを特別扱いはしてくれないけれど、でも、私たちが愛した分だけ、それをエンタテインメントとして返してくれる。私たちは、だから、それが見たくって、毎年あの場所に帰ってくる。ドリフェス!も、きっとそういう場所を作ってくれる、いや、もうあるんですよね。彼らが、ファンミーティングをホームだって言って、そこで最高超えてるミラクルステージを見せてくれたから――というリリカルな感じでまとめとします。

つまり何が言いたいのかというと「ドリフェス!はいいぞ」ということで、結局その話をしました。とっ散らかった文章で恐縮ですが、お粗末様でした。

鈴木拡樹という役者――刀ステを観て

舞台「刀剣乱舞」ライブビューイング観てきました!
作品としても面白かったのですが、何と言っても鈴木拡樹さんのお芝居がすごかった。本当にすごかった。推したいと思ったというより、怖いほど魅せられてしまった。ので、推しではない彼のことを刀ステの印象だけで綴ってみます。
ツイッターと重複している内容もございますが、ご了承くださいませ。

そこそこ演劇は観ている方だと思っておりますが、実はなかなかご縁がなく鈴木拡樹さんのお芝居を観たのは今年の「僕のリヴァ・る」が初めてでした。
曲がりなりにも若手俳優厨なのでお名前だけは日々拝見しておりまして、「鈴木拡樹が出る舞台のチケットは激戦必至」という噂は耳にしていたので、戦々恐々としながらも何とかチケットを確保し観劇することができました。
初めて見た鈴木拡樹さんは、お芝居が上手くて、ビジュアルも爽やかで、ぱーんと場内に響き渡るように通った良い声で、何でも器用に卒なくこなす方という印象でした。(ファンの方のツイートで、後から「不器用」だと自称していると知りました。)良い役者さんだなと素人ながらに感じました。でも、多分それだけじゃないんだろうな。という確信がありました。
芝居が上手くて、ビジュアルも声もよくて、でもそれだけでは多分人を狂わせるほどの人気は出ない。そういう俳優は他にも幾人もいて、その誰もが魅力的であって、けれどもそれだけでは突出した人気にはなりえない。私が見た役者「鈴木拡樹」以上の何かを、彼は持っているのだろうと。
その何か、が、今回の刀ステで少しだけ分かったような気がしています。

鈴木拡樹さんが原作付きの、いわゆる2.5次元舞台のキャラクターを演じるということは、そのキャラクターが目の前にそのまま原作と同じ姿形で現れるということなのだと感じました。
2.5次元作品キャラクターの演じ方について、役者さんによって、そのキャラクターを憑依させるとか、自分に引き寄せるとか、様々な方法があるようですが、彼の芝居はそのどれもと違っていました。なりきっているでもなく、自分に落とし込むでもなく、舞台上に現れた彼は「三日月宗近」そのものだった。演技力がどうこうとかそういう次元じゃない。そう、別次元、その言葉が彼を観ていると浮かんできました。

三日月宗近というキャラクターは、刀剣乱舞という作品において非常に存在感のあるキャラクターです。ゲームのメインビジュアルには決まって登場し、「刀剣乱舞」とはこういう作品だと知らしめる象徴的な存在でもあります。
付け焼き刃の知識で恐縮ですが三日月宗近は、平安然とした立ち姿や煌びやかな衣装、朗らかでマイペースな性格、「じじい」と自称しながらどこか達観した言葉を紡ぐキャラクターです。天下五剣の一振りで、安定して高いステータスを持つかわり、スマートフォン移植版がリリースされるまでは滅多に錬成できない刀剣として、ユーザーをやきもきさせていたように記憶しています。彼の底知れない謎めいた言動が、オタクの考察欲を擽っていたのも、実際プレイしてみればなるほど確かにと思いました。
やや話がずれましたが、三日月宗近というキャラクターがどうあるかが、そのまま「刀剣乱舞」という作品を決めるような、そんな重要な役どころなのだと思います。

刀ミュで既に今コンテンツの舞台化を観ていたこともあって、果たして鈴木拡樹さんはどういう三日月宗近を見せてくれるのだろうか、とわくわくしながら挑んだライブビューイング。
正直、想像していたものを遥かに超えていました。

そこにあったのは「鈴木拡樹」という人間を一瞬たりとも見せない隙のない芝居でした。2.5次元舞台を観ているとき、「人間ってこんな風に動けるの⁉︎」とか「いまのこの仕草は原作通り!」とか「確かにこのキャラならこういう動きするよね」とか「この役者さんはこういう解釈してるんだな」とか、そうして原作と比較しながら、そこに生まれたズレや歪みに驚かされたり、感嘆したりという瞬間が少なからずあります。
けれども、彼は驚く暇も感嘆する暇も与えてはくれません。生々しさを一切排除したように、ゲームの中にいる三日月宗近のまま、そこにいるのです。
役作りの上で、もしかしたら彼は三日月宗近はどういうキャラクターなのかと悩んだことがあったのかもしれません。けれども舞台上に現れた彼は、その過程を一切感じさせることなく、ただひとつの答えだけを持っていました。
迷う事すら許されず、有無を言わせず、「三日月宗近」という顕現した刀を、喉元に突きつけられる緊張感がありました。彼は三日月宗近そのものとして現れて、その刃先で私たちに挑発するように肌をくすぐってくる。三日月宗近という存在は、役としてではなくキャラクターの存在そのものとして、寧ろ観客を試すように提示される。彼は、ただキャラクターとしてのみそこにいて、自ら観客のいる3次元に歩み寄るというより、私たちの方を0.5次元、彼のいる場所に引き寄せる強い力をもっていました。ここまで来い、という言葉に感覚を支配されて、気がつけば私たちの方から歩み寄っているような、そんな観劇体験でした。人を動かす芝居を、人を狂わせる芝居を、する人なんですね、こわい。

すごく漠然とした、曖昧な話ばかりしてしまっているのですが、彼の三日月宗近を観ていて、具体的にずば抜けて巧みだなと思ったのは「静」の使い方でした。
激しい殺陣でも動きに流されずに、一瞬一瞬止まってみせる。その時の表情や体の置き方が、イラストから想起される三日月宗近そのものなんですよね。
原作のファンは、三日月宗近の平面で静止した姿しか見たことがありません。三日月宗近とはこういう人、と考えた時に頭に浮かぶのは、いつも立ち絵で見ているあの姿です。
なので、舞台上で三日月宗近が動き始めると、どうしても人によって自分が頭の中で思い描いていたキャラクター像と重ならない瞬間が生まれます。立ち絵からは分からない、彼の仕草や動きは、ユーザーの想像力によって補われているので、そこが人によって異なってくるのは当たり前のことです。原作が限られた情報しかないゲームな今作ではなおさらだと思います。
けれども、動きの間に「静」の瞬間を挟み込むことで、それは少し変わってきます。
彼は意図的に止まる芝居を何度も繰り返していたように見えました。普通の人間は、普通に生きていたなら、あんな風に何かをしながら止まる瞬間はそうありません。だから、生々しく、人間らしくそのキャラクターを演じるならば、その芝居はない方が自然です。
それでも、彼は、三日月宗近が何かをするたびに、止まってみせる。その立ち姿があまりに完成されているので、きっと誰の目にも原作と重なってみえたのではないかと思います。
そして、その瞬間の分だけ、観客の頭の中で彼が原作の三日月宗近と重なる時間は長くなっていく。普通に動いている時には、それを重ね合わせる瞬間すらないかもしれない。でも、静止の時間があればあるほど、私たちは彼が三日月宗近だと感じるようになる。そのうちに、その静止と静止の合間の動きのズレや歪みも気にならなくなってくる。寧ろ、ひとつの立ち絵から次の立ち絵へと移る工程として、もっとも自然に、当然に見えてくる。

彼の止まるという芝居は、2.5次元舞台という、平面の2次元コンテンツを原作にした舞台作品には非常に効果的だなと感じましたし、同時に非常に難しい芝居でもあるなと感じました。
だって、その止まった瞬間は、動いていない分、体の置き方や衣装・ウィッグひとつひとつまで、鮮明に観客の目に映ってしまいます。誤魔化しがききません。それを、寸分違わず原作に重ね合わせる、なんて、ナマモノである舞台作品だからこそ、相当な高等技術だと思います。彼はそれを平然とやってのけていた。多分、その陰にはただならぬ努力があるのでしょうが、それを滲ませることなく。

以前2.5次元を特集していたユリイカで「鈴木拡樹は小数点以下でキャラクターを調整していく」という話を読みましたが、その通りだと思います。少しのズレがあっただけで、彼の芝居は成立しなくなる。本当に繊細なところで演劇をやっている方だなと感嘆します。

鈴木拡樹という役者は、2.5次元舞台の怪物だ、と思いました。人を狂わせる芝居をするひとなんですね。こわい。すごい。こわい。

彼のこうした芝居が中心にあると、自然と観客が0.5次元舞台上に近づいてくる。だから周りのキャラクターも、0.5次元分だけ違って見える。こうした舞台作品の中心に立つだけの力が、鈴木拡樹という役者にはある。

私は、散々このブログでも語ってきた通り、もともと生々しさを感じさせる芝居が好きです。だから必ずしもこうした舞台で彼のようにあるべきとは思いません。
でも、鈴木拡樹という役者の引力に、私は抗えない。
今回は「刀」という役どころだからこその無機質さを感じさせる芝居だったかもしれません。でも、もし彼が、私が好きな原作キャラクターを演じる機会があったとするなら、間違いなく私は過酷なチケット戦争にすすんで身を乗り出すのではないかと思います。
「鈴木拡樹」という役者がキャラクターを演じるとき、キャラクターは私たちの目の前に原作そのままの姿で現れる。それこそが、彼の熱狂的なまでの人気のひとつの要因なのかもしれないなと思う次第でございます。

『オーファンズ』を観て――兄として、弟として、父として、家族として

オーファンズ大千秋楽、見届けてまいりました。
もともと2公演しか押さえていなかったのですが、一回観たあとに即座に東京公演と神戸まで公演を増やして計4回観たのですが、正直もっと観たかった。
色々な方の感想を読んで、ああこんなにも感じることが違うのだなあと思いつつも、私も私なりに主観に満ち満ちた感想をつらつらと述べていこうと思います。

アメリカ・フィラデルフィアにある老朽化した長屋。そこが彼らの居場所だった。

誰も知らない、閉ざされた世界に暮らす兄弟、利発ながら凶暴的なトリート(柳下大)と天真爛漫なフィリップ(平埜生成)。

親のいない二人は、トリートの盗みで日々の生計を立てていた。

ある日、トリートはバーでハロルド(高橋和也)と出会う。金持ちと思い込み家に監禁、誘拐を目論むが、ハロルドは意に介さず、トリートに自分の仕事を手伝うように持ちかける。

奇妙な共同生活の中で二人に富と理性、教養とともに、生きる道を教えていくハロルド。家から出ようとしなかったフィリップは自分が住む世界を知り、トリートは人との繋がりを感じるようになる。

大きな孤独と小さな温もりを分かち合う三人の孤児たち(オーファンズ)に訪れる、思いもよらない結末とは・・・

オーファンズ -Orphans - |2016年2月上演|ワタナベエンターテインメント

公式からの引用で恐縮ですが、こういう筋書きの三人芝居です。


◾︎トリート/演・柳下大

パンフレットで、大くんが「トリートにとって、フィリップは支えでもあり、救い」と語っていました。
幼い頃に父親が蒸発し、母親も亡くして、トリートはフィリップとともに天涯孤独の身になります。
二人に残されたのは、フィラデルフィアにある二階建てのテラスハウス。どこかに消えてしまった父親の影は舞台上にはなく、かわりにクローゼットにはまだ母親の匂いがする服がたくさん詰まっています。
その頃のフィリップはまだ一人では何も出来ない赤ん坊で、しかも(それがいつのことかも、それが果たして事実かは分からないけれど)花粉のアレルギーで、顔が腫れ舌が腫れ、窒息しそうになったことがある。
トリート自身も、きっと社会に出るということも働くということもまだ知らない幼い子どもだったに違いありません。けれども、母親の残り香で腹が膨れるわけでもない。トリートが守ってやらなければ、弟はきっと死んでしまう。生きるために、弟のために、彼は孤独に社会へと踏み出していきます。
親のない、世の中を知らない子どもに、社会が大人がどれほど冷たく、無慈悲だったのか。いまの恵まれた日本を生きる私には想像でしか分かりません。けれども、トリートは、社会からの冷たい視線に晒されながらも、盗みに手を染め、ナイフで身を守りながら、必死にフィリップを育てていきます。
時には、劇中でトリートが言ったように、口にするのも憚られるような言葉で罵られたり、暴力を振るわれたこともあったことでしょう。留置所にも何度も入れられました。きっと、親のいる子どもたちが普通に過ごしてきた青春も彼にはなかった。
「フィリップを守る」ということは、兄としてトリートに課せられた義務であり、そして生きる意味となり、世間から罵られても盗みと暴力を続けていく自分を正当化し(というと嫌な表現ですが)彼の心を守る盾になったのだと思います。フィリップを守れないこと、死なせてしまうこと、失うことは、トリートにとって死も同然だった。だから、盗みも暴力も、彼が生きていくためには必要なことだった。それを止めるわけにはいかなかった。トリートはフィリップをテラスハウスに幽閉し、外の世界から切り離します。それがフィリップを失わないための、死なせないための、最善の策だと信じて。
劇中フィリップが母親の面影を追うたびに、トリートが冷たく当たったり、激昂していたりしたのも、フィリップを守ってきたのは腹の足しにもならない母親の思い出などではなく自分であるという誇りを傷つけられるからという理由もひとつにあったのかもしれません。そう思うと、トリートがどれほどの思いでフィリップを愛し、守ってきたのかが痛いほどに伝わってきます。
けれども、その想いはフィリップに伝わるどころか、抑圧として、フィリップを恐怖させてしまいます。それが、トリートにも分かる。しかし、トリートにとっては、盗みと暴力でフィリップを守ること自体が、彼への最大の愛情表現であり、それ以外の方法を知らないのです。幼い頃からずっと、そうして彼を愛し続けてきたから。

そこに現れたのが、危ない仕事で大金を稼いでいる中年男・ハロルドでした。彼はふたりに世界を、社会を教えようとします。盗みや暴力ではない、「励ましてやる」という愛情を教えます。
けれども、トリートにとって、彼が教えることはすべて、自分が今まで正しいと信じてきたことを覆すことだったのではないかと思います。トリートにとって、フィリップ以外の世界は、社会は敵だった。彼らに抗い、生きていくためには、感情を爆発させて、暴力に頼るほかなかった。それが彼の「正義」だった。それが、ひいてはフィリップを守るということだった。
トリートは、ハロルドが教えることが社会を生きるために正しいことだと頭では理解しているのかもしれません。しかし、それを信じてしまえば、今までの自分を、盗みや暴力に手を染めて、すべてを投げ出してまでフィリップを守り続けてきた自分を、否定することになる。
今までひとりきりですべてを背負ってきたトリートの心に、ハロルドの言葉ひとつひとつがナイフのように突き刺さっていくのが見えるようでした。「感情を抑圧しろ」「節度を知れ」それは、すべてトリートがトリート自身の人生を生きるために必要なことばかりです。フィリップを守ることそれだけを生きがいにしてきたトリートに、ハロルドは根気強く、自分のために生きることを説き続けます。
ハロルドから課せられたテストのあと、家を飛び出したトリートは泥酔して家に戻り、そしてフィリップが線を引いた本と赤い靴を見つけます。フィリップは、自分の力で歩き出そうとしている。フィリップが自分を必要としてくれている、自分がいなければ生きていけない、それだけが心の拠り所だったのに。それが、トリートにとっての生きるということだったのに。今まで見えないふりをしていた現実を目の前に突きつけられて、トリートはフィリップが自分を置いていってしまうかもしれない恐怖に震えます。
戻ってきたフィリップは「トリートは何も教えてくれなかった」と、何度も口にしました。でも、トリートはきっと、それが彼に教えるべきことだとは知らなかったし、思いもよらなかったのではないかと思います。トリートも、幼くして社会に放り出されたひとりの子どもであったから、彼を守ること、そしてふたりで生きることだけで精一杯だった。それが、一番に自分がすべきことだと信じていた。
トリートはフィリップと言い争う中で、母親の服を床に叩きつけながら「俺がおまえを育ててたときに、あいつは何をしてた」と吐き捨てます。その言葉は、ハロルドに向けられると同時に、きっと両親にも向けられていたのだと思います。
彼は、両親よりもずっとそばで、フィリップを守り、愛してきました。けれども子どもだったから、フィリップが自立してひとりで生きる道を導くような母親にも父親にも決してなれなかった。「何も教えてくれなかった」とまっすぐにトリートを責めるフィリップの言葉は、フィリップにしてみれば当然の権利の主張であったけれど、トリートにとっては何よりも辛く苦しかったのではないかと思います。私も一番聞いててつらかったです。

ハロルドが死んだとき、トリートは彼の手に初めて触れました。それまでトリートは、人に触れられることを極端に恐れ、怯えているようでした。それは、触れられることで確かに愛情を感じ、同時に自分の愛情表現を否定されるように思ってしまうだけでなく、もしかしたら彼には母からそうして優しく触れられた記憶があるからなのかもしれません。その愛情に、縋りたくなってしまうから。それを失うことが恐ろしいから。今までフィリップを守るためだけに生きてきた、その張り詰めていた糸が、ぷつりと途切れてしまうかもしれないから。
初めてハロルドの手に触れて、トリートは強い悲しみを抱きます。けれどもそれを何と表現するのか、どう表現したらいいのか分からない。体の内で暴れまわる感情に身悶えながら、ハロルドに「置いていくな」と縋りつく姿が痛々しく切なかった。
こう考えると、トリートはもしかしたら父親や母親に「置いていかれる」ということが、トラウマのように心の傷として残っていたのだろうかと思います。幼かった彼は、フィリップを守らなければならなかったから悲しみに浸る間もなかったかもしれない。あるいは、いなくなった両親に怒りすらむけて、悲しみから自分の心を守るためにフィリップを守るというすべを選んだのかもしれない。

トリートは、不器用で歪んだ愛情を注いでいたというより、愛を伝えるすべを知らない幼い子どもだったのだなと思います。生きるために、フィリップだけを生きがいにして、本当は弱くて寂しい心を押し込めて。可哀想で、愛おしくて、けれども懸命に生きる子どもでした。
最後にフィリップに抱き締められたトリートは、声もなく泣き、震えながら、恐る恐るフィリップの腕に触れます。彼は、自分が今までしてきたことの意味を知り、触れられることで伝えられる愛を知り、失うことの悲しみと恐怖を知り、もしかしたら今までの自分が、守り大切にしてきたものが、崩れていく音を聞いたかもしれない。
けれども、彼の未来には、舞台上にひとすじ差した照明のように、それでも生きていく姿が見えました。か弱くて守るべき存在だったフィリップの手が、大きくて温かいことに気付いた彼が、これからどう生きていくのか、私は1980年代フィラデルフィアの彼らのボロくて小さな住まいに思いをはせるばかりです。

それから、柳下大くんについて。
元々若手俳優沼にはまった一番のきっかけが大くんだったので、いま推している一人である生成くんとの共演と聞き、非常に楽しみにしていました。
パンフレットの対談で、生成くんが「情熱を自分でおさえているようなイメージ」「秘めているものがたくさんある」と大くんのことを表現していました。(ラジオやインタビューでは大くんの第一印象は「怖い」だったところから考えると、よほど惹かれる部分があったのかしらと思います。)私が大くんのお芝居に魅かれる一番の理由は、その、秘めた感情を彼の役にも感じるからです。
以前に書いた記事で、安西慎太郎くんのお芝居について「生々しさ」という表現を使いましたが、大くんのお芝居にも、そのときとは違った意味で「生々しさ」を感じます。大くんの演じる役には、彼がそれまでの人生で積み重ねてきた感情があるように思います。それが彼の体の中で息を潜めたり、脈打ったり、暴れまわったり、溢れ出したりする。特に私は、彼の泣くお芝居がすきです。彼が零す涙には、その役それぞれの感情の色が滲んでいます。その感情が、観ている私たちにも染み渡ってくるような、そんな力があります。今回は、「いつも心に太陽を」ぶりの柳下くんのお芝居でしたが、今までから更に温度を上げた熱量を感じて、ますます目が離せないなと思いました。


◾︎フィリップ/演・平埜生成

トリートの話では筋を追いながら取り留めもなく書いてしまったので、こちらはもう少し絞って書きたいと思います。
フィリップは、トリートに幽閉され、外の世界を触れずに生きてきたがゆえに、物事を知らず未熟に育ちました。兄からの抑圧と暴力に怯え、フィリップにとっては彼だけが絶対的な存在でした。
素直で、純粋な性質の彼は、時折息をするように嘘を吐きます。(そのことには、生成くんもパンフで語っていました。)
テラスハウスの中だけしか知らないフィリップにとっては、窓の外に見える景色もテレビの中の出来事も、すべて自分の世界の外側にあります。彼にとっての世界とは、テラスハウスの中と、トリートだけでした。
彼は、窓の外に毎朝見える男の茶色い紙袋を見て、きっとピーナッツバターサンドを作るのだと想像します。それが果たして本当かどうか、フィリップには永久に分からない。確かめることもできない。けれども、分からないからこそ、彼の中でピーナッツバターサンドは真実になれる。だから、彼はピーナッツバターサンドを真実にする。分からないこと、知らないことは、彼にとっては、もしかしたら途方もない恐怖なのかもしれません。
彼は想像を真実にするために嘘を吐く。自分を守るために嘘を吐く。それは唇から言葉になった瞬間に、彼の中では嘘ではなく真実になる。
母親についての記憶もそうです。赤ん坊だったフィリップは、トリートに「母親の手だけは覚えている」と言いました。けれども、赤い靴を履いたシカゴの女の話をするハロルドには、母親は金髪のブルーアイだと断言する。その靴が、母親のものであるということを真実にするために。
そのとき、フィリップは母親はフィラデルフィアで死んでいるからシカゴの女ではないのだと落胆してハロルドに告げました。けれどもハロルドは「そんなんどうだっていい」と言い放ちます。ハロルドが意図した意味とは違っても、その言葉は、事実がどうかより、真実をどう捉えるか・自分自身がどう解釈するかが大切なのだということをフィリップに示唆したようにも感じられます。街灯に太陽の光が灯るように見えるという感性を大切にしろと言った時もそうです。

ハロルドはフィリップに、トリートが与えてくれなかったものを与えてくれました。触れ合うことを教え、テラスハウスの外の世界を教え、そして、彼の感性や感情や彼自身を否定することなく受け入れます。
フィリップは、ハロルドを通して、愛情を知り、靴紐が結べなくてもローファーを履けばいいと知り、地図を得て自分が広い世界のどこにいるかを知りました。毎朝窓の外を歩いていた男が紙袋に何を入れていたのか知るすべを得ました。自分が、もうアレルギーに怯えることなく、どこへでも行けることを知りました。そして、自分の感性や感情が決して間違いではないことも知り、兄が絶対的に正しい存在でないことも知ったのです。
トリートに隠れて新聞や本に線を引いて言葉を調べるほど知ることに飢えていたトリートは、彼が教えるすべてを吸収し、確かな力にしていきます。想像と嘘で補い、怯えながらにしか語れなかった真実を、彼は自分の力で語ることができるようになりました。トリートの言葉の何が真実かを、自分の力で見極められるようになりました。
世界を知り、自分自身の力を得たフィリップにとって、トリートは、テラスハウスという小さな世界の絶対的な支配者であり、抗うべき存在であり、相容れない存在に見えたのではないかと思います。(でもトリートを完全に悪人だとも思えないのは、彼が確かに自分を守ってきてくれたことを「覚えている」からだと思うと涙ちょちょぎれ案件ですね。歯がゆい〜)
フィリップの言葉は、よどみなく、純粋で素直なまま、残酷なほどまっすぐにトリートの心へと突き刺さっていきました。フィリップは、もしかしたら、それが彼を傷つけることだということは、知らなかったかもしれません。彼の心を抉ることだとは、まだ知らなかったかもしれません。なぜなら、このときフィリップは、まだトリートの心の弱さを知らないから。真実をつきつけることが正しいと信じているから。
彼は、それをハロルドの亡骸に縋りつく兄を見て初めて知ったのではないかしらと思います。悲しみを表現する言葉を持たない兄を見て、置いていくなと言って縋りつく彼を見て、フィリップは、トリートがどういう気持ちで「もうトリートの兄貴はいらないんだな」と言ったのかを、少しだけ理解したのだと思います。彼の悲しみを、弱さを、少しだけ知ったのだと思います。きっと、トリートの愛情のすべてを理解しきれたわけではない。それでも、強くて、恐ろしくて、理不尽に権利を奪ってきた兄の背中が、フィリップの目にはひどく小さく見えたのではないでしょうか。そして、その肩が励ましを求めていると、愛されることを求めていると、きっとハロルドがフィリップにそれを見たときと同じように、感じたのではないかと思います。暴れるトリートの体を抱き締めて、ふと脱力したトリートがフィリップの腕にそっと触れたとき、フィリップはまるで母親がそうするようにトリートの体を優しく、優しくたたきました。
大切な人の弱さに触れることで、時に人は強くなれることがあります。幼い頃のトリートは、か弱い弟を見て強くなろうとしたけれども、幼いがゆえにその強くなり方が分からなかった。自分の心を押し込めることで、強くなろうと、強く見せようと必死で生きてきました。けれども、フィリップはもう彼を守るためにどうすればいいのかを、きっと知っています。ハロルドに教わった愛するということを、トリートが受け入れたくても受け入れることが決してできなかったその愛を、今度はフィリップが彼に伝えてあげる番がきたようにも思えました。

そして、平埜生成くんについて。
生成くん自身も以前語っていたとおり、「双牙」以降の外部舞台出演を経て、彼のお芝居はどんどんと進化しているのを感じます。私は大くんも生成くんもテニミュ後にはまった新参なので、まだまだ分かっていないことも多いと思いますが。
それまで劇団プレステージアミューズ若手舞台で観ていた生成くんに対して、私は人の目を惹きつけるカリスマ性というか引力は絶対にあると思いつつも*1上手いと特別感じたことはそれほどなかったのですが、それが「あ、いいお芝居する役者さんだな」と思うことがとても増えました。なんというか潜在的にあった魅力に、実力と自信が上乗せされて、それでもまだ「これでいいのか」と常に自身に問い続けているような。
私が強くそれを感じたのははやっぱり蜷川幸雄演出の「ロミオとジュリエット」でしょうか。人によって評判がかなり分かれる作品でしたが、あの作品を観て、生成くんの芝居の印象がガラリと変わりました。以前からちょっと気になっていた彼の芝居の癖が抜けて、役として生きる姿を見せてくれたなと思ったロミジュリから、今回はそれに「彼らしく」役を生きるというお芝居が観られたように思います。
フィリップという役も、私が抱く生成くんのイメージに近いなと感じました。それは、無知で未熟だった彼が知っていく過程が、というよりも、自分を知り、誰かの弱さを知り、強くなっていく様が、です。
次作のDISGRACEDも、非常に楽しみです。こちらも千秋楽が兵庫な気配を察したので、その際はできればまた遠征したいなと思っています。


◾︎ハロルド/演・高橋和也

ハロルドの存在について、パンフの対談で高橋さんは「天からの使い」かもしれないといい、生成くんはトリートやフィリップが作り出した虚像の「おばけ」かもしれない、と語っていました。
ハロルドについて本編で明かされていることは、ほんの僅かです。株取引で危ない事をやっているらしいこと、未亡人を残したシカゴから追われて逃げてきたこと、孤児だったこと。トリートとフィリップのふたりの兄弟に比べて、ハロルドについてわかることは少ししかありません。
ハロルドが「いつまでもずっと、フィリップ、そばにいる」と言ったのは、「デッドエッドキッズには何でも差し出す」と言ったのは、それほどまでに二人に肩入れする理由はなんだったのでしょうか。
フレッド、という彼の孤児院時代の仲間の名前が、彼の会話に二度出てきました。一度はトリートに節度の話をしたときに、そしてもう一度は息をひきとる寸前に。
死ぬ直前にハロルドは、フレッドが孤児院のドイツ人の料理人の目を盗み食料を奪ったことを語りました。(このへんの記憶が曖昧なので違っていたら申し訳ないです)彼はそのあとそのドイツ人に袋叩きにされたけれども、彼の勇姿を孤児たちは窓に張り付いて眺めていたと。同じく孤児だったハロルドにとって、フレッドはヒーローのような存在だったのだと思います。節度を知らない男だったけれども、そうして何かのためにすべてを投げ出すことができる彼に、憧れのようなものを抱いていたのかもしれません。
フレッドは金のために自分が生きるのに必要な新聞さえも売って、亡くなってしまいました。その話は、トリートに「節度を知ること」が己が生きるためには必要であると説く際に語られます。
ハロルドは、もしかしたらフレッドにもし自分の新聞紙を差し出すことができたら、と考えたことがあるかもしれません。もしかしたら、フレッドが死んでいく様を眺めながら自分の無力さを思い知ったかもしれません。そのとき、ハロルドは孤児院の英雄であったフレッドにも、節度を知らないというそれだけで、無慈悲に死が忍び寄ることを知りました。
だからハロルドは、暴力的で感情を抑えることができず節度を知らないトリートを救いたいと思ったのではないかとも思っています。彼を、彼らを救うことは、ハロルド自身を救うことでもあった。トリートのような凶暴な人間が好きだというのも、そういう人間が秘める強さと弱さを知っているからでしょうか。
ハロルドがふたりの前に現れたのは、まさしく神の手引きのような運命だったのかもしれません。彼の大きな掌から伝わる励ましの愛は、まさしくふたりの人生を変える奇跡だったかもしれません。けれども、それは同時に人間らしく様々な後悔や想いの狭間にいたハロルドにとっても、己を救う出会いであったに違いないと思っています。

そして、高橋和也さんについて。
初めてお芝居を拝見しました。あたたかい父性に溢れた、大きな方でした。若手ふたりの芝居を受け止め、作品をより高みへ昇らせるために彼らに優しく手を添えているような、この作品にとっても父のような存在だったように思います。主演三人のアフタートークショーの際に、トリートにナイフを振りかぶられるシーンのお話をしてくださったのが印象に残っています。どうしても反射的に体が引いてしまうけれども、演出家の宮田さんにハロルドはそれに動じる男ではないと言われ、どういう気持ちで彼らに接すればいいのかと考えられたとおっしゃっていました。そんなときに高橋さんご自身のお父様が、もし自分であれば「決して当たらないと信じているから動かない」と言った話を聞いて、ハロルドの気持ちが腑に落ちた、と。(すべてニュアンスです)血は繋がらないけれどもトリートやフィリップに対してハロルドは本当の我が子だと信じて接していたのだと、そのお話を聞いて改めて感じました。
大千秋楽カーテンコールの挨拶で、すべてを出し切った大くんと生成くんに、高橋さんは感極まった様子で、しかし力強く声をかけていました。もう大とも生成とも顔をあわせることはありません、けれどもまた一緒に芝居ができる日を楽しみにしていますと、そう言った趣旨のことを言って(私もとにかく涙が止まらずにいたので正確ではないかもしれませんが)、両手を広げました。まず隣の大くんの肩を抱き、それからふたりで少し離れたところにいた生成くんを呼び寄せました。三人で円陣を組むようにして抱き合う三人は、まさに血の繋がらない家族のようでした。高橋さんは、ふたりにとって本当の父親のように大きくてあたたかくて憧れの存在だったのだと思います。


三人のお芝居は、まるで化学変化を見せるように毎回観るたびに違った顔を見せてくれていました。
大くんの感情が爆発し、それに応じて生成くんが異なる反応を見せ、そんなふたりを高橋さんが大きく広げた両腕で抱きとめる。千秋楽のトリートとフィリップの掛け合いは、いま、その瞬間、彼らが感じた想いがそのまま重なっていくように、リアルで、生々しかったです。素晴らしいキャスティングでした。
そして、音響や照明もとても素敵でした。個人的に好きだったのは、フィリップが外に出るシーン。不勉強でテレビから流れていた作品を知らないのですが、そのテレビの音をBGMにフィリップはハロルドに導かれてドアの外へと踏み出します。そのときの音が、まさにどこか新しい場所へと進んでいく彼にぴったりの音なんですよね。原作映画のどのシーンなのか、分かる方がいらっしゃったらぜひ教えていただきたいです。

ここ最近、「マーキュリー・ファー」、「消失」、「僕のリヴァ・る」などいくつか兄弟ものの作品を観てきましたが、その中でも特に好きな作品であったと思います。
カーテンコールで、ハロルドに励ましてもらうことが叶わなかったトリートが高橋さんの手で大くんとして励まされたことも、泣き崩れてしまいそうな生成くんを高橋さんと大くんが抱きかかえるようにして舞台上に連れてきてくれたことも、ふたりを見守る高橋さんの温かい瞳と両腕も、すべてひとつの作品として私の心に深く刻まれました。
観客の心に深く残る、素晴らしい作品でした。この出会いを、私はこれから先もずっと大切にしていきたいと思って止みません。


話は変わりますが、今回の作品の客席をみながら、改めて、いまこうした作品を売ることが非常に難しい時代なのであると痛感しました。
2.5次元舞台などの誰もが知っている原作の舞台化作品は、実際にその舞台が良いか悪いかは別として、事前に「こういう作品が原作である」ということが分かる安心感があります。特に若手俳優ファンの観劇層にとって、キャスト以外の大きなフックのひとつとなるのがこの原作があるかどうかだと思います。しかし、彼らがそうでない作品と出会う時、それを観るかどうかはとてもシビアな目で選別されているのかもしれません。
観れば面白い、読めば面白い、プレイすれば面白いという作品は、最初にどう売り出すかが非常に難しいコンテンツなのだなあと実感します。観に行きたいと思っていたけれど何となくチケットを取らなかったという声を今回多く聞きました。
そんな人たちの心を動かしたのが、周囲の声や評判だったように思います。クチコミを見て急遽チケットを取ったという人は私の周りだけ見ても、他の作品よりかなり多かったです。クチコミも、出演者の関係者の感想はもちろんですが、より身近な一般客の声の方がより影響力があったようでした。情報を入手することが容易い時代だからこそ、溢れかえる情報の中から何かを選ぶ際には、キャストも内容も分かりやすいものがまず一番に選ばれます。そして、その次に選ばれるのが、周囲の信頼できる人たちから勧められたものなのかもしれないですね。
分かりやすいものが選ばれるからといって、分かりやすいものだけが残っていくのもなかなかに寂しいものです。どちらの作品にも、それぞれ良さがあり、上も下もありません。とはいえ、こうした演劇も商売である以上、観客に選ばれるものが残り、それ以外が振り落とされていくのも道理です。分かりやすさはそれだけで武器になります。けれども、そうでない作品が商業的に選ばれていくためには、それ以外の何かの力が必要です。それは、企業側のプロデュース方法かもしれないし、プロモーションかもしれないし、客席に人を呼び込む力のある観客の声なのかもしれません。つまり、我々にも、その種の演劇作品を商業的に生かす力が確かにある。かも、しれない。

……というわけで、面白い作品に出会ったときは、できるだけ公演中にいち早く感想をつぶやこう!と思った次第でございます。
今回のブログも、もう少し早くアップすればよかったなあと反省しつつ、このへんで締めたいと思います。

*1:余談ではありますが、SUPERハンサムLIVE2013オーラスで主人公・ルイを演じる生成くんのマイクがラストのもっとも重要な台詞の時に水没して使えなくなり、彼が咄嗟にマイクを下ろしてその台詞を発するという場面がありました。そのとき(彼はもちろん悔しかったでしょうが)、これは起こるべくして起こった奇跡だったのかもしれないと思いました。あの瞬間、あそこにいたすべての人が、生成くんに強く惹きつけられたのではないかと私は思っています。

2015年下半期舞台・イベント個人的感想

だいぶ遅くなってしまいましたが、2015年下半期感想まとめです。
読み手のことをまったく考えていない読みにくさで恐縮です。何か思い出した時に追加することもあるかもしれません。
上半期はこちら


■7月

  • 映画「青鬼」初日舞台挨拶 4回
  • 七夕ジャンクション
  • 女中たち
  • キャストサイズイベント 第1部/ゲスト:水石亜飛夢、原嶋元久
  • キャストサイズイベント 第2部/ゲスト:原嶋元久、杉江大志

7月は割と落ち着いた月でした。
映画「青鬼」初日舞台挨拶では、久しぶりに中川大志くんのお姿を拝むことができました。東京ガールズコレクションかなにかの水球ヤンキース出演ステージ以来かなと思います。大志くんには「家政夫のミタ」のDVD発売記念イベントの時に初めてお目にかかったのですが、13歳の少年だったあの頃から比べて随分青年らしく成長していて、今更ながらにしみじみとしまいました。松島くんとのビジネス絡みも見せてくれて、おおおおお若手俳優だ!と当たり前のようなことを思った次第でございます。けれどもトークになると、やっぱりお客さんの方を見られないのを松島くんに指摘されていて、そういうところは変わらずなのが微笑ましかったです。松岡広大くんもですけれど、推しが少年から青年へと成長していく姿を見られるというのも、なかなかない経験だなあと思うことしきりでございます。
女中たち」 は劇場に入った時に、中屋敷さんの作品にしては抽象的でない、具体的な小物などが多いステージだなあと思ったのですが、劇中それが上手く生かされていて面白かったです。矢崎広くんが、シルクの下着の肩紐を直す仕草が官能的で素晴らしかった。「七夕ジャンクション」の原嶋元久くんも、衣装が妖艶な感じで良かったなあ。


■8月

  • ダイヤのA
  • 劇団☆新感線「五右衛門vs轟天」 3回
  • K/東京
  • 松岡広大写真集握手会
  • 松岡広大写真集発売記念トークイベント
  • K/大阪 2回
  • 中屋敷法仁のナマ屋敷/ゲスト:宮下雄也、佐藤流司
  • Have a good time?
  • ライブ・スペクタクル「NARUTO」DVD上映会 2回

この辺から下半期の怒涛の日々が始まりました。
ダイヤのAは原作を知らずに乗り込んだのですが面白かったです。元々高校野球が好きなので、スタメンに選ばれなかった子たちの悔しさが伝わってくるシーンでは夏の球児たちを思い出してぐっときてしまいました。2.5次元舞台で、推しとは関係なく初めて泣きました…。しいていうなら、もう少し高さと奥行きを感じさせる演出にしてほしかった。素直に野球をやるシーンが多かったのもあってか、狭さを感じてしまったのがちょっと残念。続編も行きたいです。
舞台「K」は東京と大阪で観ましたが、大阪千秋楽でまさかの公演中断という事態がありました。ククリ役の方が病気で舞台に立つことができなくなったと制作と演出家からお知らせと謝罪があり、代役は立てず末満さんが声を当てる形で舞台を進行、その形に納得できない場合はその場で退場してもOK、返金いたしますという対応でした。これが初めての観劇なら、役者ヲタでなければ、私はこのまま観劇しなかったかもしれないし、時間がもう少し押したら早めに会場を出ざるを得なかった。怒ったと思うし納得もいかなかったと思います。商品として考えればあってはならないことだった。けれども演出の末満さんが「幕を閉じさせてください」と土下座をして謝った時の、目の前の作品や人を守りたいという気持ちは痛いほど伝わってきて、どうにも涙が止まりませんでした。未完成の形で客席に届けてしまった事はプロとして間違いなく失格だし、信頼を失う行為だったけれど、そうと分かった上で舞台に立ち続けた彼らには心から拍手を送りたいと思います。作品としては、第一弾の時の酷評を聞いていたのですが、なかなか面白かったと思います。OPとEDのダンスの安西猿比古に踏まれたいです。
「Have a good time?」は、私が劇団プレステージの本公演を初めて観たときの思い入れのある作品でした。その前の番外公演が本当の最初だったのですが。ぼんやりとこの作品をもって劇プレを箱推しするのを最後にしようと考えていたので、最後の作品テーマ曲が流れた時にはこの作品の初演から三年間通い続けてきた公演を思い出して、めちゃくちゃ号泣しました。千本桜ホールの千秋楽公演最前列だったなあ、初めてのあのときは。今後も機会があれば観に行きたいと思います。
NARUTO」DVD上映会では、シンガ公演ぶりにメインキャストが揃ったところを見られて幸せでした!運良く両公演参加できたのですが、広大くんが他三人を信頼しているのが伝わってきて改めて良い座組だったなあと思いました。しかし可愛いとしか言えなかった…。大画面でDVDを見られたのですが、やっぱり公演中は私推しばっかり見てるなあと実感した時間でした。
いやはや、こう考えてみると、私には珍しくよく泣いた月だったなと思います。


■9月

「五右衛門vs轟天は、5月に大阪公演も行く予定だったのですが都合で行けず、8月に入ってようやく観ることができました。実は劇団☆新感線の五右衛門シリーズのノリが少し苦手で、さほどチケットを押さえていなかったのですが、35周年という節目の年に行われた今作はまるでビックリ箱のように新感線ゆかりの豪華キャストと派手な演出が繰り広げられるお祭り騒ぎの作品で、十分楽しく観ることができました。あれだけの大物キャストに囲まれながら賀来くんのキャラクターもきちんと輝いていて、モテリーマンやスパマロットの頃のコメディ作品ではどちらかというと自由でパワフルな周りのキャストの間で楽しそうに笑っている印象だったのですが、今回は周囲に負けず劣らず作品を引っ掻き回しているように見えて、とても素敵でした。
金色のコルダは期待以上の良作でした。原作を知らない私でもストレスなく内容が理解できる丁寧なつくりで、オケも迫力があってよかったです。麻璃央くんの役が冷徹で無機質そうに見えて実は体温のある役だったとか、小沼くんが相変わらず二次元から飛び出したようなパーフェクトスタイルだったとか、舞台上にいるだけで空気を変えてくれる理人くんの存在感とか、キャスティングもとても素敵。
「少年たち」は、滝沢歌舞伎に続いて二作目のジャニーズ舞台でした。ショーパートは、キャスト全員がきらきらしていて素敵だったのですが、ストーリーパートは色々と思うところが。戦争の話にしたいのか、若い少年たちのキラキラした部分を見せたいのか、どっちつかずの中途半端さが目について、キャストが一生懸命だからこそこの作品でなければと思ってしまったのが残念でした。
ミュージカル「テニスの王子様 青学VS聖ルドルフは、私が今まで見たテニミュの中でもトップクラスで好きな公演でした。テニミュに限らずスポーツ漫画原作のミュージカルにおいて、ひとつの公演で作品が完結するというイメージはあまりなく、基本的にはテニミュであれば全国立海まで観て初めて完成される長い作品という風に捉えながらいつも観ていたのですが(そうして積み上げられて観られる作品という面白さがあるので、それが悪いとは思っていません)(まだそういう作品の初心者なので、今までの数少ない経験上になりますが)、ルドルフは次の公演への期待を煽りつつも、その公演だけで満足できるような本筋とは別の軸を持った作品に感じました。それは聖ルドルフという学校が持つ特性なのかもしれないのですが、人間関係の中でひとりひとりが少しずつ成長していくさまが丁寧に描かれていました。不動峰の描き方も、一幕二幕を通した全体の構成も、総じて好きでした。リョーマというキャラクターに初めて色気を感じたり、桃城と海堂の関係っていいなあと改めて思ったりもしておりました。ルドルフは特別好きな学校という訳ではなかったのだけど、千秋楽が終わった頃には、もっとチケット取っておけばよかったなあと思えたのは幸せなことだなあと思うばかりです。ドリライはやく〜!
女海賊ビアンカも面白かった! 最後はややもやっとしたところもあったのてすか、歌も照明もキラキラしていて、非日常というに相応しい作品でした。ビアンカとシルバーがデュエットしてる姿から一度苦しそうに目を逸らした後笑顔になって見つめるアルベルトにめっちゃぐっときてしまい、原嶋さんのお芝居本当に好きだなと改めて思った次第です。
「天邪鬼」もう既に感想をまとめたので割愛しますが、混沌とした人間くさい毒にまみれながらも、どこか真っ直ぐに光が差しているように明るいところがあって、そこに決意というか意志の強さというか、救いようがないというより寧ろ何かしらのヒーローのようなものを感じて、私が今まで見た中屋敷さんの作品の中でも特にポジティブな作品だったなーと感じました。
「武士白虎 〜もののふ白き虎〜」こちらで、「RENT」こちらで、語っているので割愛します。
9月はとにかく良作に恵まれたなあと思います。あっ通学シリーズの大志くんもかわいかったです……水ヤン以来すっかり千葉くんと仲良くなっていて…好き……


■10月

「黒いハンカチーフ」は、これぞエンターテイメント!という心地よさで観ることができた作品でした。オチがある程度予測できるだけに安心感があり、けれどもだからつまらないのではなく、その予測を少しだけ越えるような小さなドンデン返しが最後にあって、頭からケツまでストレスなく楽しめる作品とはこういうことだなあと改めて思いました。矢崎さんの先生が格好よかった…なかやざき第二弾いつまでも待ってる……
「Sleeping Beauties」は、割と後方席が空いていたのですが、このお値段で、この場所で、こんな最高級の歌が聴けちゃうの!?という贅沢感がたまらない美味しさでした。ラグジュアリー演劇……。
仮面ライダードライブ ファイナルステージ」も、詳しくはこちらで語ったので割愛しますが、竹内くんがライダーになってくれて、初めて追いかけたライダーがドライブで、よかったと思うことしきりです。
「夕陽伝」、あっ、はい、萌えました!ありがとうございますありがとうございます!繊細な脚本に、ド派手な演出がややミスマッチで違和感は残りましたが、しかし面白い本でした。池岡くんの下衆い色気が控えめに言ってサイコーでした。
そして、なにより「朝彦と夜彦」。両ペア観劇できました。先に、松島くん松田くんペアから見たので、そちらの感想から。こちらでは、朝彦の視点から作品が見える部分が多かったなあと思います。学生時代の自分たちに無難に3をつけていたような教師になった朝彦。けれども、彼の本当の核は、宅配業者の男を耐え切れずクビにしてしまうような、そんな1か10で厄介な人間の人生を背負ってしまうところにあって、それは夜彦が好きな「自分で殺してくれる」男でもあるのだなあと思います。朝彦はただ漫然と3をつけ続ける人生を受け入れながらも、本当は夜彦のような存在を核として、堂々と1や10をつけられるようなそんな男になりたかったのかもしれない。だから人間臭く苦悩している。キャストふたりは自分自身の中身は逆だと言っていましたが、だからこそ彼らがその逆を演じることに意味を感じました。特にハンサムなどでよく知る松島くんは、今までは確かに夜彦のイメージでした。けれど、役者の仕事を通して朝彦であることもきっと求められていただろうし、それを見事に演じきることもできる男なのだろうとドライブの色々を見て思っておりました。彼の朝彦は、夜彦を心のどこかで欲するような、憧れに似た熱情を持っているのがよかったです。
そして、桑野くん法月くんペアでは、夜彦に同調する部分が大きかったです。こちらの朝彦と夜彦はいつか、たとえ何年先になっても、死ぬときは多分一緒なのだろうなあと思います。夜彦の視点から朝彦の横顔が見えて、朝彦になりたかった、という夜彦の言葉がより深く響いてきました。朝彦がいう「普通」の意味が夜彦と同じように分からなくなってしまって、でも松田松島ペアではそういうこともなかったので、あー役者が変わるとこんなにも見え方が違うんだなあと。松島くんの朝彦は不安定なところがある感じがしましたが、桑野くんの朝彦は深い闇の中で諦めという安定を得ている気がしました。彼の朝彦は、自分が本当は1か10かをつけてしまいたいのに鈍感な大人になったふりをして、本当はそうでないことに気づいていながら気付かないふりをしているようでした。法月くんの夜彦は嘘ばかり吐くくせに、誰にも言えなかったことを朝彦に晒してしまうほどに朝彦に心を明け渡していて、同時に彼がいないと「どうにかなってしまいそう」なほどに強く焦がれているようでした。彼の夜彦は、遮光カーテンの闇の中へと手をのべてくれた朝彦のことを、それ以来ずっとずっと白夜のような夜を明かすまなこで見つめ続けて、彼自身より彼を深く知っているんだろうなと思います。
何を言いたかったのかわからない感想になってしまいましたが、とても、大切にしたい作品でした。ざっくり感想すぎるので、朝彦と夜彦だけで記事をひとつ書けばよかったのでは?と思います。


■11月

  • ミュージカル「刀剣乱舞」2回
  • ミュージカル「テニスの王子様聖ルドルフ
  • ドリフェス! ミラクルステージ 2回
  • ミュージカル「刀剣乱舞」ライブビューイング
  • 舞台「戦国無双」DVD発売記念イベント
  • 「BOYS, BE HANDSOME!!!」復習DVD発売記念先行上映会 2回
  • TRUMP TRUTH
  • ハイパープロジェクション演劇「ハイキュー‼︎」
  • 講師による納祭塾
  • TRUMP REVERSE

「刀剣乱舞」は、正直通いたくなる作品になるとは思わなかったのですが、見終えたあとにはとにかく何これ楽しい!とはしゃいでおりました。最初はキャラのビジュアルと簡単なプロフィールぐらいしか知識がなかったため、いまいち面白さを捉えきれずにいたのですが、ある程度の予習をして挑んだ2回目ではこの作品が原作ファンが求める「萌え」のポイントをきっちりと押さえているものなのだなあと感じました。行間の多い原作ゲームだからこそ、こういうキャラクターが見たい!というファンの想いが強い作品だと思うのですが、その渇きを満たすということをキャストも制作スタッフも非常に意識して作っていたのではと思います。キャラクターひとりひとり、とっても素敵でした。今剣は周囲を無重力に変える力があるし加州に流司くんをキャスティングした人は天才だなと思ったし三日月の殺陣は舞のように優美だったし石切丸はライブパートで紳士だし岩融はビジュアル最高すぎだし小狐丸はじじいとのやりとりソーキュートでした。劇中での歌にあまり脈絡がなかったのはミュージカルとしては少し残念でしたが、ライブパートは本当に楽しくて、初めて団扇作ればよかった!と後悔しました。本公演は三日月団扇で挑みたいものです。
ドリフェス! ミラクルステージ色々と思うところはあれど、とにかく今後の展開が楽しみです。ちなみに私は今のところ黄と青推しです。はやくライブやってくれ〜〜〜!
「TRUMP」はTRUTHを観てあまりにも面白かったので会場でリピーターチケットを買ってREVERSEも観ました。ラファエロとアンジェリコの関係が大好きすぎました。アレンがTとRでまったく印象が違っていて、陣内アレンは狂気を感じて、それに誘発されるように武田クラウスが狂ってる感じがよかったし、武田アレンは純度100%天使で、それに憧れて焦がれてでも手に入らない陣内クラウスって感じがたまらなくよかったです。エンディングに現れる武田クラウスには悦びを、陣内クラウスには哀しみを感じて、二度美味しく楽しませていただきました。
「ハイキュー‼︎」に関しては、12月のラストで語らせてください…。
そして、ハンサム復習DVD発売記念先行上映会があったんですね。この月は。年末のハンサムライブがないという絶望感に打ちひしがれながらも、そもそもイベントがない告知をしてくれるアミューズとかいう事務所すごくない??と謎の事務所上げをしていた頃合いでの発表で、もうとにかく血眼になった申し込み、幸運にも二回参加することができました。推しが来る回に入れるのかどうかと当日の朝まで本当に胃が痛かったです。
こうして、ハンサムライブ以外の場所で、彼らのトークを聞くのはもしかしたらTHE GAME以来だったのかもしれないなと思います。レポらしいものはツイッターに投下したので省略しますが、やっぱりこの子たちが好きだなあと感じるばかりでした。来年のハンサムライブは、きっとメンバー編成も大きく変わるのでしょうが、それでもやっぱり一年を終えるためにはハンサムがないと!と思うので、今年の年末が楽しみです。


■12月

  • ナイロン100℃ 43rd SESSION「消失」
  • 書を捨てよ町へ出よう
  • ハイパープロジェクション演劇「ハイキュー‼︎」
  • ハイパープロジェクション演劇「ハイキュー‼︎」ライブビューイング
  • 俺と世界は同じ場所にある 2回
  • 黒羽麻璃央カレンダー発売記念イベント 2回
  • 夜の姉妹
  • ミュージカル「テニスの王子様」山吹
  • ライチ☆光クラブ 2回
  • 晦日明治座納め・る祭
  • 年越しRUN舞で☆るンバ

ナイロン100℃ 43rd SESSION「消失」、めっちゃ面白かったです。劇中にふわっと語られる舞台の設定やらキャラクター像から外側ははっきりとしてくるのに、核心が見えない不安感があるというか、それが想像力を掻き立てて、最初劇場に入った時には何の変哲もないように見えた舞台上が、終わった時にはパースの狂った世界に見えました。不思議な体験。それが夢に出そうだなあと思ったら、本当に夢に出て、そのおぞましさにはっと目覚めたら、金縛りになっていて、しかも部屋の入り口にぼんやり人影がふたつ見えまして、あ、これヤバイやつだ!こういう時はエロいことか楽しいことを考えねば、と思って深夜3時ぐらいから実況動画見始めたという事案が発生しましたが、このあと実は高熱があって魘されていたのだと発覚したのはまあ良い思い出です。
「書を捨てよ町へ出よう」は、以前より気になっていた村上虹郎くん目当てで観劇しました。久々にこういう作品を見たなあという感じでして、不勉強ゆえに理解はあまり及ばなかったのだけど、女性陣が非常によかったです。そして、虹郎くん。孤独と絶望を抱えた19歳にもうすぐなる18歳、ひと公演ごとに傷を負いながらも、羽化の時を待ちわびているような印象でした。彼の声は、常に囁きのように細く、かよわく、後ろまで届かないことも多かったのだけど、でも不思議と言葉が浮かび上がってくる、空間に存在感が響いているようでした。彼をもっと知りたいと思うけれど、玉ねぎのように皮をめくってもめくっても、何にもたどり着けないような気がします。作品としては、80年代、90年代、そして2000年代の時代が代わる代わるに表現されるコラージュ的なつくりで、そうしてめまぐるしくかわる「時代」の中でも浮かび上がる肉体のしなやかさと艶めかしさは変わらないのだなあと感じました。そんな中で、役と同じ名前を持った虹郎くんだけが、孤独に翻弄されているところがまた彼を魅力的に見せてくれていて、もう推しが増えた気配しか感じ取れませんでした。つらい。楽しい。
「俺と世界は同じ場所にある」も、結構じっくりと感想を書いたので、こちらでは語りませんが今の彼らが演じることに意味を感じる作品でした。また何年後かにこの四人でアフターストーリーやってくれ〜〜〜!
麻璃央くんのカレイベは、黒羽麻璃央という役者にはこれからもっともっと大きくなってほしい、なるに違いない、と思わせてくれるようなイベントでした。「刀剣乱舞」の本番中にお父様が倒れて、本番後にお見舞いに行ったというお話をしてくれたのですが、昔は親に手を引かれてお見舞いとかにいっていた立場から自分一人で行く立場になって、男として成長しないといけない、自分の意思で自由にいろいろできるようなところまでのぼっていかないと行けない、そういうきっかけになった舞台でもあったと話してくれたのがとても印象に残っています。そのあと、シリアスな空気になった雰囲気を茶化すように変えようとするのも、なんだか本当にたまらなくて、うううう好きだよありがとうううううという気持ちでした。応援してくれてありがとうございます、と言われるよりも、こうして仕事に取り組むときの気持ちや想いをを見せてくれたり、こうなりたいという強い決意を見せられる方が、私はぐっと惹かれてしまうのだなと思います。
「夜の姉妹」原嶋元久が可憐な少女すぎる〜〜ヽ(;▽;)ノとうとい〜ヽ(;▽;)ノという感じです本当にありがとうございました。一幕はどちらかというと男女逆転を笑いにするシーンが多かったのですが、二幕では話の筋にそれが生かされていてよかったです。役的には、平野くんと黄川田くんが印象的でした。妊娠したローザの表情が少女から母になっていたのにはドキっとしましたし、黄川田くんは役の感情表現が希薄なだけに弱さを見せるシーンが引き立っていて素敵だったなあと思います。
ミュージカル「テニスの王子様 青学VS山吹」は、ルドルフでハードルが上がりすぎていた感はあったのですが、楽しかったです!ジミーズの派手具合が可愛かったです…千石のダンスが、好き……
「ライチ☆光クラブ、本当に最高でした。中村倫也くんが好きでして、あああゼラ様〜〜と叫びたくなるような、跪いて足を舐めたい系ゼラ様でした(語彙力とは)。ゼラの狂気と、タミヤの意思の対比がすばらしく、ラストシーンの迫力はこの二人だからこそのものだなと思います。東京ゲゲゲイのパフォーマンスも作品のスパイスとして効いていて、新しいライチの扉を開いた気がします。中村倫也という役者は、本当に色気の幅が広く、人間としての執着や弱さがみせる美しさが魅力の今回のキャラクターはまさにぴったりでした。倫也くんの舞台は、RENT以来すべて観ていますが、本当にハズレがない、というか、もう彼が出ているというだけで価値があると感じるばかりです。
「晦日明治座納め・る祭」は観劇納めにふさわしい、面白い作品でした。いままで観た祭シリーズの中でも一番好きかもしれないです。阿弖流為が死んでも途端に何かが変わる訳ではなく大団円を迎えられるわけでもなく強いものが弱いものを蔑み支配する構造は変わらないけど人の心は変わるんだなあと、当たり前のことを感じました。合唱曲の使い方がよかった、どこか懐かしくて、ただ純粋に何かを信じる彼らの気持ちが、説教臭くなくすっと入ってきたのが、しみました……。そして、めんまろもまろせも天使でしたありがとうございました。「年越しRUN舞で☆るンバ」も、昨年同様事故しかなかったですが、天使と女豹が降臨してくださいまして本当に幸せな年越しでした。
そして、ようやく、ハイパープロジェクション演劇「ハイキュー‼︎」の話を!します!本当はこれだけで記事をまとめようと思っていたのですが、あれよあれよというまに時が過ぎ、記憶も曖昧になってしまったのでここにしたためます。正直に申し上げまして、多分、いわゆる2.5次元作品の中でも三本の指に入るくらい好きでした。アイアシアターであるということを差し引いても、とにかく完成度が高い作品だったと個人的には思います。以下は今まで以上に個人的な感想になります。
須賀健太くんの日向は、本当に日向でした。そうとしか言いようがなかったです。きらきらしてて、バカで、まっすぐで純粋で。影山と出会うことで彼の中の才能が引き出されていく様を、鮮やかに演じていました。木村達成くんの影山も、とにかく影山で、むって唇尖らせるのとか、ぐって唇を引き結ぶのとか、ボゲェ!の言い方とか、影山って実在するんだな…と感動して震えました。実はの話をすると、冒頭で王様の格好をして出てきたときは、ホンモノだ…影山だ…と思って泣きましたありがとうございました。木村達成は影山飛雄じゃないんだよ!?!?と自分に言い聞かせながらファンクラブ要項を読んで悶々と過ごす日々です。
……話は逸れましたが、そんな二人の関係が、私は原作でも大好きなんですよね。それが、とても丁寧に描かれていたのが嬉しかったです。影山の不安とともに王様の形を縁取った影がむくむくと膨らんでいくのを日向が消してしまうところとか、影山の世界が崩れていく中で「影山!いるぞ!」と日向が叫ぶところとか、影山にとっての日向が光として描かれているのが非常に良いなと思いました。特に、旭さんに嫉妬してたろ、というシーンは原作でも特に好きなシーンでして。二人ともバカで不器用だけど誇りがあって、真逆だけど似た者同士だから隠し事なんてできない。影山にとって日向が光だという描写があるからこそ、日向がエースを羨んで嫉妬して、囮である自分を卑下するのが、自分を否定されるように許せないんだろう、と観ているこちらが彼らの感情を繋げて観られるのがよかったです。上手下手に分かれて立った日向と影山がそれぞれの過去を突きつけられて、でも「コートに立っていたい!」と二人で叫ぶシーンも最高に高まりました。お互いに違う方向を向いて、違う悩みに苦しんで、でも共通するその部分を重ね合わせることで二人は強くなるんだね……涙ちょちょぎれ案件です、影山の前に日向が現れてくれて本当に良かったと思うばかりです。バカとバカだから、ぶつかりあうけど、でもだからこそ分かり合えるものがある。そういう部分を本当に丁寧に描いてくれた制作陣とキャストに感謝の言葉しかないです。
原作三巻分とはいえ、限られた時間の中で描くために省略される部分も多かったですが、日向と影山だけでなく、烏野ひとりひとりの細かい感情まで織り込まれて展開していくのも良かったです。旭がこっそり体育館に練習を見に来た時に、スガさんが床に置いてあるボールを愛おしそうにそっと持ち上げるのが好きでした。優しくて、気配りができて、大胆なところと臆病なところがあって、あまりに冷静だからこそ引き際が早くなってしまいがちで、でもそれでもバレーが好きで、誰よりもコートに立っていたい。その気持ちがそこに凝縮されていました。お察しのとおり、スガさん好きです。烏野上級生に関しては、度々挿入された過去シーンで、彼らの心にはずっと伊達工との試合がリフレインし続けているということが印象付けられるので、ひとつの公演を通して彼らひとりひとりの気持ちが繋がって見えて、それもまた素晴らしい作りだなと思いました。
青葉城西のシーンも、数は少ないけれど見せ方が好きでした。登場シーンが格好良すぎでは??と思います。特に及川。芝居が回を重ねるごとに格段に進化していくのを感じましたし、何よりあのジャンプ力は、あれだけでキャラクターの説得力が増して、影山の前に立ちはだかる壁としての厚みを感じました。登場シーンが少ない分、原作よりも嫌味が少なくて、キャラクターらしさというよりも影山にとっての壁という存在の意味合いがまだ強いけれど、今後続編があれば!きっとキャラクターらしい及川を見せてくれるんだろうなと思います。「今日も信じてるよ、おまえら」で及川サァァァァァン!!!!と叫びたくなる気持ちプライスレスでした。
上級生の話の時にも少し触れましたが、作品としての作りも非常によかったです。作中ではボールをやり取りするようなストレートなバレーの表現は少なく、サーブやトスの動きやダンスを使っての表現が多かったのですが、横も縦も高さも限られたあの会場ならば、ああいった表現が一番試合の熱さを伝えてくれるのだろうなと思います。日向の速さを表現するために最初の一度だけ影分身のようにアンサンブルを使うのも、これから先こういうシーンがあったら日向はこんな風なスピードで走って飛ぶんだぞ、ということを、初めてこういう作品に触れる人に最も分かりやすい形で伝えていて、好印象でした。
それから、ラストシーンの表現が、演劇的で私はとても好きです。これは好みが分かれるところだと思うのですが。日向の両肩に影山と及川が手を置いて、その彼らの肩に次のキャストが手を置いて、ってそれが数珠繋ぎになって、日向の羽根になる。日向が飛べるのはチームという仲間がいるからで、日向の翼は仲間なんだというエンディングは、言葉にすると陳腐だけれど、こうした言葉のない表現にすることで真っ直ぐに心に響いてきました。そこばかりでなく、青春もので、スポーツもので、少年漫画だから、説教くさい作品にだって幾らでもしようがあると思うのですが、まさにそんな言葉を武ちゃんが言っている時も、日向は後ろで寝てるし、それぞれ好き勝手に話しているし、先生もポエミーすぎたかなって茶化してしまいます。キャラクターに向けて語られる言葉は、彼らのフィルターを通して、角を落とした少しだけ柔らかい形で観客の元へと届いてくる。けれども、それは言葉の意味や価値を薄めるどころか、彼らの積み重ねてきた経験が上乗せされて、伝わってくるというよりも、納得させてくれました。
舞台上が斜めになっているのもとても効果的で、舞台上がより立体的に、会場が本来持っているキャパを、それ以上に見せてくれていました。アイアシアターって、こんな風に広く、大きく使えるのだなあと驚きました。その試合の時でのジャンプの威力とか、あるいは映像を映すためにもすごく生きていましたし、そう、床に投影される映像がとてもよかったんですよね。マンガにはマンガにしかできない表現があって、映像には映像にしか、演劇には演劇にしかできない表現があって、それは別々に存在しているのが当たり前だったけれど、この作品ではその3つが掛け算されて、その分だけ表現の幅が広がっているように思えました。
ルドルフがそうだったように、この作品は、この先の舞台の内容の先まで追いかけて初めて完結する作品ではなく、このひとつだけとってもきちんと完結しているというのが私には割と大きく感動した点でした。上級生にとっての伊達工との試合はもちろん、一幕で日向や影山が気づいた・知った、信じるということが、きちんと二幕に引き継がれていて、人から人へと伝わっていく。ひとつの作品として非常に価値の高いものに感じました。
元々「ハイキュー‼︎」という作品が大好きで、それに加えて好きなキャストや脚本家が関わっているという色眼鏡もあると思いますが、それにしても素晴らしかった。再演を待つ今、それが終わったら、山口が葛藤するシーンとかも見たいし、合同合宿編も見たいし、日向が目を開けるところも見たい。原作に思い入れがある作品の舞台化には、いつもとは違う楽しみがあるのだなあと思いましたので、今後は流行の漫画はきちんと追っていきたいと思います。
とにもかくにも、黒バスも元々原作を軽くですが知っていた作品なので、期待しかないですね。全巻読んだので予習はばっちりです。


長くなりましたが、2015年。本当に出会いの多い一年だったと思います。下半期は特に意識して推し以外の作品も観に行くようにしていたのですが、その中での新しい気付きも多くあったように思います。
一番感じたのは、私が惹かれる役者は、芝居やパフォーマンスをみていいなと思ったやつはついてこい!みたいな肉食系俳優なんだなというところ。ロールキャベツ系なこともありますが、やっぱり「この人のつくる作品が好き」が私の原動力なのだなと感じます。
そんなこんなで、2016年も新しい出会いがある一年になれば良いなと思いながらチケットを取る日々でございます。

「俺と世界は同じ場所にある」を観て

「俺と世界は同じ場所にある」観劇してきました!
ああ〜アミューズの若手のこういう芝居見たかったの〜ありがとう大好きだよ〜〜心から感謝してる〜〜と思ったので取り留めなく感想など綴ってみます。
当日券もあるらしいので、ぜひ観に行ってみてほしい!という願いも込めつつ。私はあとは千秋楽です。

まず簡単にあらすじをば。一度しか見ていないので記憶違いがあったらすまない!推敲は相変わらずしていない!

静岡県三島市の成人式。大学進学のために上京していたポン(溝口琢矢は、久し振りに故郷の地を踏んだ。中学時代からの友人――大山(富田健太郎)ドテ(石原壮馬)と再会し、肩を叩き合って喜ぶポン。だが、当時一緒につるんでいたケン(三村和敬)カズキはなかなか姿を現さない。二人と連絡が取れないまま始まった成人式でテンションの上がった三人は、ポンが親に買ってもらった車でケンの家まで向かう。ケンは、工場で働くカズキとルームシェアをしながら地元の服飾系専門学校に通っていたが、最近実家に帰ってきたらしい。中学時代によくみんなで遊びに行った、ケンの家の離れを訪れたポンたち。だが、そこで会ったのは、ポンが知るケンとは全くの別人だった。更に、彼の変化に戸惑いを隠しきれない彼らの元へ「カズキが結婚した」との知らせが入る――。
「俺と世界は同じ場所にある」 │ アミューズモバイル

まとめるのが下手で恐縮ですが、こんな感じのお話でございます!
以下ネタバレご注意ください!


等身大の、リアルな、20歳という年頃の青年たちの感情や葛藤や想いが伝わってきて、ああ〜わかるよ〜と頷きたくなるシーンばかりでした。
20を過ぎた役者がやっても、きっとそれはそれで面白いものになるのだろうけれど、でも、彼らがいまこの作品をやることにとても意味があると思う。彼らがいま肌でひりひりと感じている想いが、この作品に重なっていたように感じました。
とりあえず、キャラクターと役者ひとりひとりについて、勝手に、簡単に語ります。


■カズキ
本編には、名前しか出てこないキャラクターなので紹介のみ。
眼鏡男子。ケンとルームシェアをしていたが、解消後、ずっと片想いしていた彼女(ドテの元カノ)と同棲し、プロポーズ。結婚後は新潟に移り住む。だが、仕事先の上司である工場長を殴って逮捕され、いまは長野の刑務所で服役中。
ドテいわく「恋愛と結びつかない」男(ドテは「カズキから告白されたことがある」と思っていたが、他三人いわく「勘違い」。しかし、ゲイなのかも、と思わせるくらいに色恋沙汰には無縁だった)。中学時代はポンと一緒にサッカー部に所属していた。心優しい男だが、工場長と上手くいっていないと悩んでいた。


■ケン/演:三村和敬
元服飾系専門学生、現引きこもり。専門学生の頃は、自分のファッションブランドを持つという夢を持つ明るい青年だったが、一緒にブランドを立ち上げようとしていた友達にデザインを盗用されて人間不信になり、学校を辞めて引きこもりになる。カズキとはルームシェアをしていたが、専門学校を辞めてから少しずつ距離が空き、ケンは実家に戻ることに。
ずっとケンを心配してくれていたカズキに「世界を変えてくれ。戦争や悪口がある世の中に疲れてしまった」と軽い気持ちで言ったことを謝りたいと思っている。
一年間外にも出ず部屋にこもってカップラーメンばかり食べていた。家族からはいないものだと思われており、人ともほとんど会話していなかったため、ポンたちと再会したときも最初はスケッチブックに文字を書いて意思を伝えていた。

志高く、夢を描いていた最中に、信頼を置いていた人に裏切られ、誰かを信じることが怖くなってしまったケン。再会したポンたちが、彼のあまりの変わりように困惑する様がすごくリアルだなあと思いました。腫れ物に触るような、でも、昔の彼を知っているからこそ、放っておけなくて、微妙な距離感で話をする。彼の相談に乗ってやりたいと思うけれど、多分どこかで、引きこもりというものを理解できずにいる。その距離感を、ケンもどこか感じ取っている。多分、お酒の力でも借りないとなかなか自分の意見が言えないタイプな彼は、その距離を前にますます言葉がうまく紡げずにいるような、そんなかんじ。
三村くんは初めてお芝居を見る役者さんだったのですが、とってもチャーミングでした。過去の回想シーンで代わる代わるみんなが色んなキャラクターを演じるんだけど、ドテの元カノの役のときの可愛さはんぱねえな!という気持ちです。


■大山/演:富田健太郎
フリーター兼ミュージシャン。春からは知り合いのコネで就職する事が決まっている。三島市ではタウン誌の表紙を飾るほど注目されていて、自称「三島のヒーロー」。
お調子者で落ち着きがなく、シリアスな雰囲気が苦手ですぐに茶化してしまいがち。平凡で恵まれた家庭に生まれたため、引きこもりのケンや、家族というものに敏感なドテの気持ちが分からないと自嘲するが、傷ついたり悲しんだりしている友人のことを放っておけない優しい一面を持っている。仲間に連絡を取るのはいつも大山発信。


一番過去が語られないけれど、ストーリーを回すという意味で役割の大きいキャラクター。大人になって変わった四人の中で、「一人だけ中学生がいるんだけど」と言われるぐらいに一番昔と変わらないのだけれど、でもそんな昔のままの彼がいまや「三島のヒーロー」なのだ。周りの空気を読むのがうますぎて、つい空気を読めない道化の役割を担ってしまうような人っているよね。彼はそういう、自分の立場やすべきことを悟ってしまっているような、ある意味で一番大人な人間だったのかもしれない。中学の時から。人が悲しんでいる姿を見たくない、なんてすごくヒーローっぽいな。中学時代のポンとは違う形で、もしかしたらそれは自分のための行為かもしれないけれど。
ケンがカズキからの手紙を読んで泣き崩れるシーンで、隣からそっと優しく、そして苦しそうに視線を向ける富田くんの表情がとってもよかった。コメディも吹っ切れてて要するにSUKI。


■ドテ/演:石原壮馬
フリーター。って冒頭で言ってた気がするけど、最後の下りでは大卒って話もしていたので、大学生?かな。(大学進学のためにバイトでお金を貯めているそうです/20151217追記)現在は、東京に住んでいる。中学生の頃には両親が離婚しており、母親と二人で生活をしていた。母親が付き合う男はいつもろくでなしばかりで、中学の修学旅行を当時母親が付き合っていた男に金を使い込まれてしまったために欠席したり、男と別れて家を追い出され土手の上で一週間ほど生活した事もある。そのため、ケンいわく「家族を傷つけられること」にひどく敏感である。
今はモテないが、中学当時付き合っていた彼女・アカネとは周りが苛立つほどにラブラブだった。だが、当時家庭が荒れていたせいで周囲にきつく当たる事も多く、特にアカネには八つ当たりしてしまっていたことを詫びたいと思っている。ちなみに当時は厨二病だった。

土手で生活していた頃、そのうち数日は母親もいなくて、一人で生活していたドテ。彼女に自分の家に来るよう誘われ「一人で生きる」と厨二病全開で拒んだものの、そのあとやってきたカズキの父親に強制的に家に連れ帰られて彼の家族の温かさを知る。だからドテはカズキが元カノや彼の家族を悲しませるような行為をしたことに怒りを爆発させた。
大人になった彼は、厨二病だった過去のことなんて嘘みたいにスカした兄ちゃんになっていて、いつだってどこか冷めた顔をしている。でも、「家族」というキーワードは、彼の心の中に変わらずにあったモノを爆発させてしまう。
壮馬くんってこんな風に演技するんだなあと思った。うまいかどうかは私には判断できることじゃないと思うけれど、表情の変化がすごくいいなと思った。眠そうにするシーンの顔が死んでる感じとか、キレるシーンでの目が据わってる感じとか、なんだろう、演じるというよりも内側の感情がそのまま表面に現れているような自然で素直な表現で、正直ちょっと驚いた。


■ポン/演:溝口琢矢
大学生。進学と同時に上京した。仲間の中では一番頭が良く、近々留学することも決まっている。裕福な家庭に生まれ、いまでも「パパ」「ママ」と呼ぶ両親から車や留学などの資金の援助を受けている。
三島にいる頃は、テストの問題が間違っている!と教師に抗議したり、ケンが転校しそうになった時に教室にバリケードを張ろうと提案するなど、レジスタンスを率先するリーダー的存在だった。
だが東京で、自分が井の中の蛙であったこと、非凡などではなかったことを知り、それをコンプレックスに感じるように。中学時代の友人には、自分が凡人であると知られたくない反面、常識から逸脱することができなくなってしまった。


ポンは、成人式に一人だけ袴姿で来てしまうような男の子です、それも赤の着物に龍の袴。それも、彼の「非凡でありたい」という想いを象徴しているようだなあと思う。
中学生の頃って、「俺(私)って最強だな」ってなぜか思えてしまう瞬間があるんだよね。根拠もないけれど、「無敵」だと思える。事実「最強」だし「無敵」なのだと思う。井の中の蛙だとしても、この頃にはヒーローと呼べるような子たちが必ずいて、彼らはいつだって自分の想いを言葉や行動にすることを恐れなかった。けれども、そんな人ほど大人になって「あの時は若かった」なんて口にしたり、「俺なんか普通だよ」と笑って言ったりして、でも、どこかでまだヒーローであった自分を捨てきれずにいる。
ドテに「昔はあんな風だったのに、なんでこんな大人になってしまったのか」というような怒りをぶつけられるシーンでの、ポンの表情がとてもよかった。ハンドルを握りながら、冷静を装っているようで、でも噛んだ唇が震えていて。反論はするんだけれども、自分でも本当はそう思っていることを悟られないように、直情的になったりはしない。
常識に縛られて、守られていることに安堵して、でも昔みたいに剥き出しだった自分が故郷には確かにいるから、こう、なんだろう、焦れったいし、恥ずかしいんだ。いまの自分が。それを他人から言われるのが、こういう人間にとっては一番痛い。
まさに「ああ〜わかるよ〜」というキャラクターでした。私もまさにこのタイプ。パンフレットにもありましたが、私が思い描いている溝口くんにも、少しだけ重なるところがありました。いや、溝口くんが平凡だと思っている訳ではないけれど!非凡だよ!でも、自分のことを「変人だ」って言ってるところとか愛おしいなと思うよ!ああ、だけど私が持ってる溝口くんのイメージは少し情報が古いから、いまはまた少し違うのかもしれないなと思ったりします。


カズキというキャラクターは、最初から最後まで舞台上に登場しない。
けれども、アカネからカズキか逮捕されたと聞いたあと、新潟から車で長野の刑務所に向かった彼らは、客席に相対する形でカズキと再会する。彼らの視線の先は客席に向かっていて、けれどもそこにカズキがいる。だからカズキと向かい合う彼らの感情が、本当にありありと伝わってきた。

一番、おっ、と思ったのが、「久しぶりに中学時代の同級生と再会する時」のぎこちない距離感の表現が、本当にリアルだったこと。
視線の置き方や、話し方や、自分のあるべきキャラクターや、呼び方を、少しおっかなびっくりになりながらも、昔はあんなに仲が良かったのだから今もそうでありたいと思う彼らには、きっと、少年から青年へとまさに成長しているキャストたちが感じ取ってきたものが投影されているのだと思う。
芝居は必ずしもリアルであることがイコール素晴らしいことではないけれど、この絶妙な空気感の中に描かれる人間模様は、そしてそこにある「何か」は、きっと今の彼らにしか表現ができない。今の彼らが演じてくれたからこそ、ああそうだこういうことがあったんだ、と彼らに同調して、自分の過去を振り返ることができる。

面白いだけじゃなく、彼らにとっての経験になるだけじゃなく、他の誰でもいけない、今の彼らにしかできない、今の彼らにしか伝えられない作品だったなと思う。
彼らがやることに、観客として意味を感じる事ができる舞台作品に出会えた事が私は本当に嬉しくて嬉しくてたまらないのだけれど、まだこの気持ちをうまくまとめることができないので、またいつか改めて書き記したいなと思います。

閑話――私がモンペになる時

時折ふと「事務所が推しをどう売りたいのか分からない」などというモンペ的(と言う表現が正しいのかどうかは分からない)発言をしてしまう事がある。
冷静に考えると「お前は推しのなんなんだよ」とも思うのだが、もう無性に不安になったり腹が立ったりする事が、まああったりもするのである。かといって、常にそんな風に思っている訳でもない。じゃあ、何故ふとそんな思考に陥る事があるのか。
私の場合は「推しの芝居や出演作が、自分の感性や価値観と合致しないとき」モンペ的発言をしがちだなと思う。
通常、チケット代は、その作品を観る対価として支払っている。例えば、推しの関係ないところで観た作品が、自分の感性や価値観には合わない作品だったとき、作品の価値+自身の経験値に支払ったものとして考えることが多い。
それが、もし推しが出演する作品だった場合、チケット代は推しへの投資になる。推しが出ているであれば、例え好きでもない作品でも観に行きたい、という時なんかはもう最初から投資の気持ちだ。
作品の対価としての支払いが、推しへの投資に変わると、その場での観劇欲的なものは結局満たされず、その先へ持ち越しとなる。将来的に私が好きな作品で返ってきたらいいな、と未来の彼らの作品に期待する。あるいは作品の外の活動(私の場合は認知・ファンサというより、演じる以外の仕事を指す)に、見当違いとわかっていながら見返りを求めたりする。
そういう時だ、ついモンペ的な発言をしてしまうのは。本当に、この先私が観たいものが観られる日が来るの?推しはそれを見せてくれるだけの役者なのに、それを観せてくれる舞台は用意されるの?事務所は彼をどういう役者として売っていきたいの?と。私が、私の、と言っているあたり何とも自分本位である。
よくよく考えれば、ただ単に自分の嗜好や価値観と彼の仕事が合わなかっただけなので、事務所がどうこうとかそういうことではない。そもそも自分が彼の仕事のターゲット層ではなかっただけである。だが、日頃推しに盲目になっていることがまあ多く、自分自身の価値観を変えようとも思わないので、まず推しや自分以外の部分に、その合わない原因を見つけようとする。それが続いて、ようやく、ああもしかして私の観たいものと彼の仕事の方針が違うんじゃないかと気付く。
最近は、そもそも私個人の価値観だけで判断した「合わない」の原因を他へ求めるのもおかしな話だし、でも趣味なのに苦しい思いをするのも面倒だなあと思って、推しへの投資だと言い聞かせながら自分の嗜好に合わない作品へ通うことをほとんどしなくなった。その劇団だからという理由だけで某劇団に通い詰めるのを止めたのも、結局自分勝手なモンペであることに疲れてしまったからである。もちろん、これは私の嗜好と価値観に合わなかったというだけで、彼らには何の非もない。
推しのATMになりたい、というのは、彼らになら何でもかんでも金を支払いたいというより、推しが提供してくれるエンターテイメントに対価として相応しいだけのお金を払いたいという意味だ。私が推している役者は、私の感性や価値観とうまく合致した作品に出演することが多いので、その気持ちになれることは割と常に保証されている。チケット代以上に私自身が価値を感じる作品なんかには、もっとお金を払わせてくれ!と思う。もし、そんな時に、その推しが自分とは合わない作品へ出演することが決まったら、間違いなく通うと思うが、それは先への投資というより、いま既に超過分未払いの気持ちだからである。
金、金、言いすぎている感があるのは貧乏性の性だが、要するに、観劇は趣味である。推しを推すのも趣味である。自分のための活動だ。事務所の方針がどうこうという話をするのも楽しいので引き続き素人目に色々と考えたいなあと思うけれど、自分が辛くならない程度で留めておきたいなと思う。

2015年上半期舞台・イベント個人的感想

2016年ももう間近に迫る、師走。
今年はとにかく現場に足を運ぶのを目標に、「現場百回」と刑事ドラマのようなものを掲げながら過ごしてまいりました。
ラインナップはかなり偏っておりますが、ぼちぼちと、今年に観た舞台やイベントのまとめなどをしていこうかなと思います。各月ごとに、印象に残った事などをざくざくと話していきます。
まずは上半期から。思い出した感想を、今後こっそり追加するかもしれません。


■1月

  • 新・幕末純情伝
  • 安西慎太郎 写真集発売記念イベント
  • 安西慎太郎&矢田悠祐 写真集発売記念トークショー
  • POTLUCK FESTA 2015
  • 超英雄祭
  • D-room8 心霊探偵八雲の会
  • 佐藤流司 写真集記念イベント

るコンのカウントダウンで幕が開き、元旦早々賀来賢人の新感線出演が発表された2015年。
1月はイベント系の参加が多かったです。
「新・幕末純情伝」は、テニミュ以外の小沼将太くんが観てみたい!という気持ちで行きました。泥臭いイメージのある新撰組ですが、若手キャストの清潔感と生真面目さが印象に残った作品でした。頭も育ちも良く、綺麗で純粋な感じが、やや題材にはミスマッチのようにも思えたのですが、桂や龍馬等のキャストが腰を据えて作品を力強く引っ張っていたので、安心して楽しめました。この時はじめて新国立劇場小劇場の舞台真横バルコニー席に座りましたが、正面からだと見えないような役者さんの表情が見えたのが新鮮で面白かったです。当たり前なんですけど、ああ客席から見えないところでも芝居は続いているんだなあと。
そして、安西くんのイベントにもいくつか足を運びました。テニミュ以外の素面の現場は初めてだったのですが、握手会の時は「もう花丸120点満点!」と言いたくなるようなコメントをくれて、お値段以上でした。矢田くんとの伝説のおでんつんイベントは、緊張しながらもリラックスした雰囲気で、口説きあったりふざけあったりしていて非常に可愛かったです。最後のハイタッチお見送りの時に、矢田くんに不意打ちで帽子を褒められて、うっかりテンションが上がってしまい、安西くんに何も言えなかったのは笑い話です。
POTLUCKは面白い試みだったのですが、イベント開催時間が予想よりも遥かに長く、最後までいられなかったのが残念でした。次もし機会があれば、きちんと見積もって予定を組みたいなと反省しました。
流司くんのイベントは、この子どんな子なんだろう〜という好奇心に身を任せて参加したのですが、ファンを飽きさせず萌えツボをガツガツ刺激してくれていて、こっちの沼はこわいぞ〜と思いました。


■2月

  • マーキュリー・ファー
  • 劇団プレステージ本公演「WORLD'ENDのGIRLFRIEND」 3回
  • 心霊探偵八雲 〜祈りの柩〜 3回
  • ママと僕たち
  • つかこうへいTriple Impact「ロマンス2015」
  • ママと僕たち 〜おべんきょイヤイヤBABYS〜
  • つかこうへいTriple Impact「いつも心に太陽を」

質の良い作品をたくさん観られた月だったなと思います。
「マーキュリー・ファー」は、もう一度観たい、でももう二度と観たくない、素晴らしい作品でした。誰もが壊れてしまった世界の中で一人だけ苦しみと過去を背負って愛する弟を守り生きていく兄と、バタフライというドラッグのようなものに侵されて過去を忘れ一時の快楽に生きる弟。そんな兄弟を演じるのが、高橋一生さんと瀬戸康史くんという最高のキャスティング。快楽に染まり辛い過去を忘れた弟への羨望、何も知らない彼への憎しみや怒り苛立ち、けれども真っ直ぐで純粋な弟を愛おしく想う気持ち、一度だけ彼を置いて苦しみから逃げ出してしまった過去の後悔、そして贖罪。そんな複雑に絡み合う感情を吐き出すように演じる高橋一生が狂おしくて、美しかった。水田航生くんが演じるダレンが、父親にカナヅチで殴られた頭の傷を「究極の愛」と表現して「もうこんな愛はこの世にはない」と主張するシーンがとても好きです。水田くんファンが非常に羨ましくなる作品でした。通うの大変だっただろうけど、精神的に。
「ロマンス2015」は、中屋敷法仁×つかこうへい作品が大好物すぎて、チケットを取ったのですが、鈴木勝大くんも池岡亮介くんも素敵ですっかり魅了されてしまいました。冒頭の鈴木くん演じるシゲルの女装は、揺るぎなくベストオブ女装2015だと思います。シゲルがタバコを咥えながら池岡くん演じる牛松の前に現れて、煙をふきかけるシーンが至高すぎましたありがとうございました。お二人ともメインのお芝居を拝見するのは初めてだったかと思います。当初イメージしていた鈴木くんはもっと渇いていて、無機質で、頭でっかちで、シゲルとは正反対な青年だったのですが、この作品で目の前に差し出されたのは、粘こくて生なましくて本能的なキャラクターでした。池岡くんも、どこか俯瞰で物事を見ているような、二次元的で、所謂Dボ(偏見)らしい役者というイメージだったのですが、彼の牛松は何もかもかなぐり捨ててしまうほどの愛に身を焦がして、愛に溺れて、愛を恐れて、のたうちまわって、ぶつけていく様が鮮やかな三次元の青年でした。もし、私が彼らのファンだったなら、まさにこういう役柄を演じている彼らが見たかっただろうなと思います。
「ロマンス」を観終えて、すぐに「いつも心に太陽を」のチケットを取って、翌週足を運びました。柳下大くんは、私の演劇という趣味に拍車をかけた役者さんだったのですが、お芝居を観るのは久々でした。もしかして「アメリカ」か「熱海殺人事件」ぶりかな。一見すると、「いつも心に太陽を」の方が「ロマンス」に比べて、作りも見た目もサブっぽいゲイさがあるのですが、キャラクターの精神や関係性はこちらの方がBLに近かったなと思います。柳下くんの泣きの演技の幅広さに、毎度感嘆しきりです。高橋龍輝くんは、テニミュ以外で(多分)初めてお目にかかったのですが、冒頭の独白が素晴らしくよかったです。こうしてまた好きな役者が増えていくのだなあと思います。
「WORLD'ENDのGIRLFRIEND」、劇団プレステージの公演は「サイキック・フライト(再演)」からの新参野郎ですが、一二を争う好きな作品になりました。外側を設定で固めてキャラクターを立てるのではなく、内側を掘り下げてキャラクターを深めているのに、作品への繊細な優しさや愛を感じました。あれを見たときの感覚に似ています、「青年Kの矜持」。特に、最近実力派の道を着々と歩んでいる、劇団員きってのイケメン(……と謳われていますかね?)平埜生成くんをメインに持ってきて、イケメンが武器にならない相手との物語を描いているのが非常によかったです。そして、千本桜ホールからシブゲキに移っての作品を観ながら「俺たちポンコツだけど応援してくれる方々のために頑張ります!」と繰り返されるのに少しばかり辟易していていたところだったので、この作品が、劇団プレステージという団体そのものに寄り添いすぎていないテーマであったことは、私にとって非常に大きなことでした。この前作の「ボーンヘッド・ボーンヘッダー」も、好きでした。
心霊探偵八雲は、安西くんの演技ってまじで生々しさの色気100パーセントやな!!という気持ちでした。生々しさの色気に関しては、もう散々前に書いたので割愛。演じるというより、宇都木賢人その人の魂の叫びを聞いているようでした。そんな風な安西くんのお芝居を観るのは初めてで、いつか焼き切れてしまうのではと最初のうちは思いましたが、見るにつれ、安西くんはその人の人生に自分を重ね合わせるのではなく、その人のものとして全うするから、一緒に心が引きちぎれてしまうことはないのかもしれないなあと思った次第でございました。
「ママと僕たち」、その場でDVD予約しました!楽しかった…楽しかった……!ママ僕は、昨年のネルフェスで観たのが初めてで「なんだこの頭のおかしい作品は!」と思って気にしていたのですが、こんなの楽しくないわけないじゃん…?見目麗しい男子たちが赤ちゃんになって、ママが一番とか言うわけじゃん……??若手俳優好きが行き過ぎると保護者的になる例があるのを熟知したネルケさんならではの最高にクレイジーで最高にキュートな作品でした!ここで、かねてより気になっていた原嶋元久くんに落ちましたどうもありがとうございました。


■3月

2月が非常に充実した月だったので、3月はまったり……とはいかなかった。
なんといっても大きかったのはNARUTO。推しがセンターに立っているだけで鳥肌が立ち、涙が溢れてくるという謎の体験をしました。こちらも、詳しくは以前語ったので割愛します。最初の数回は、カテコのキャストが自由すぎて非常に可愛かったです。
そして、ミュージカル「テニスの王子様」青学vs不動峰では、初めてテニミュの始まりを観ました。スタートラインに一緒に立って感じたのは、テニミュというシリーズは、観客自身が、キャストや作品とともに、これからの長い戦いを積み重ねていって、初めて完結する物語であるということ。3rdシーズンは、ぜひ彼らと共にゴールまで走っていきたいと思いました。ゴールテープの向こう側には、どんな景色が広がっているんだろう。わくわくします。


■4月

4月は、何と言っても「星の王子様」が素晴らしかったです。原嶋くんが最初の独白の言葉を発した瞬間に、ああ私はこの作品が好きだと思いました。そんな感覚を抱いたのは初めてでした。すっと言葉が体の隙間に滑りこんできて、じんわりと温かくなるような、そのまま心臓を指の先でそっと撫でて、それから大切に包み込みこんでくれるような、優しいお芝居でした。一番ぐっときたのが、二人で井戸を探しに砂漠を歩いている途中、寝てしまった王子を抱きながら飛行士が歩くシーン。王子のはかなさを知り、大切だと気付き、守りたいと思う想いが発する言葉のひとつひとつに滲んでいて、こんなに優しい気持ちがあるんだと、とても尊いものを見た気がして胸が苦しかった。死を目の前にして、ひとりぼっちで、それなのに、ずっしりと腕にかかる重みを愛おしく思う彼の言葉が、こんなにも刺さるものだとは思わずにいて、気付いたら涙が自分の頬を濡らしているなんて嘘みたいなことが起きていたのでした。作品としては本当にシンプルで、原作を時系列順に忠実になぞるだけと言えなくもない演出と構成だったのだけど、筋が静かな分、その上で動く役者の言葉や心の波がダイレクトに伝わってきたような気がします。もう一度観たいけれど、このたった一回を、これから先もずっと大切に胸にしまっておきたくなるような、そんな作品でした。


■5月

5月はあっちこっちで一生推せる〜ヽ(;▽;)ノと言っていた月でした。
飛天でのドライブイベは、なんというかすごいものを見ちまったぜ……という気持ちでいっぱいでした。竹内涼真くんの可愛さと尊さに目覚めました。ドライブについても、軽く前に書きました。ありがとうドライブ。ありがとう、ありがとう。
そうそう、初めて「滝沢歌舞伎」でジャニーズの舞台を観ました。豪華絢爛という言葉が相応しい、お金の贅沢な使い方を知っているエンターテイナーの作品だなあと思いました。観客の視線の動きを熟知したステージの作りに、感心しきり。私の好みとはピントが合わなかったのですが、でも一度は観て損がない作品だったと思います。二階最前センターにいたら、タッキーが目の前まで飛んできました。言葉通りです。キラキラしてた…あれがジャニーズ……(こなみかん)
戦国無双「滝口炎上」の安西くんは、とっても美しかったです。特に、今まで生々しさばかりを感じていたのですが、「戦国無双」の殺陣やダンスや「滝口炎上」のキャラクターには無機物的な冷ややかな美しさがあって、新しい一面を見たような気がしました。この話も、前にちょっとだけしたような気がします。「戦国無双」のダンスで目を眇めるのが本当にエロスだからけしからんもっとやれと思います。


■6月

6月、6月は濃かった。濃かったです。
まずは、「タガタリススム、の、的、な。」。これも、「天邪鬼」の記事で触れたので詳しくは割愛するけれど、非常に好みな作品でした。重ね上げられていく言葉、シーン、謎が、後半一気に解きほぐされていくのが気持ちよかった。ラストシーンが本当に好きです。余談ではありますが、「ありとあらゆる原嶋元久を堪能できたので膀胱死すとも悔いはなしだな」というツイートからお察しください。原嶋くんのクソ女装もありがとうございました。
「中屋敷法仁のナマ屋敷」は、今後公録があれば迷わずいくぜ!というような夢企画でございました。中屋敷さんが、玉城くんと細貝くんに「ちょっと二人で話してて、俺はそれ聞いてメモ取ってるから」的なことを言っているのを聞いて、あああそれ知ってる!おれたちだ!!!!!と思いました。色々なことを思ってメモをしていたはずなのですが、そのメモがどこかに消えたので、またどこかで。中屋敷さんが好きだなあと思うばかりの事故しかないイベントでした。まだ宮下雄也オールナイトイベに一度も行けていないので、次こそはと思っています。
そして、NARUTOシンガポール公演。海を越えて遥々行ってまいりました。久々に一人で海外に行ったのですが、現地で知り合った日本のファンと親しくさせてもらって、さほど孤独ではなかったです。渡航前からチケットのシステムがよく分からずに間違ったチケットを購入してしまって幾分無駄にしてしまったり、タクシーの運転手と謎の喧嘩をして英語のあまりの出来なさに呆れられたり、部屋にダブルベッドが二台に露天風呂までついてる豪華な部屋を一人で独占して枕を濡らしたり、劇場の近場に宿泊していたが故にキャストに遭遇してしまったり、と何だか色んなことがありましたが、世界という大舞台のセンターに立つ推しの姿を、ステージに一番間近な席で見られたということが何よりの宝物になりました。これから先、きっと件の推し松岡広大くんのステージを観に、再び日本の外へ足を運ぶ機会が来るのだと思います。けれども、彼の、世界という舞台の第一歩はここから始まった。それを見届けられたこと、そして、それを心の中に置いておけること、彼が役者として大きくなっていく様をこの目で観られること、それが何よりも幸福だと思っています。あああ、シンガポール公演もう一回みたい!


…………というわけで、下半期編に続きます。
今年の観劇予定が12/31まであるので、更新は来年かもしれません。