推しのATMになりたい日常

推敲しない女です。

センター・壮馬の言うことは――ドリフェス!FINAL STAGEによせて

‪1日目を終えたあとのブログ(http://atm.hatenablog.jp/entry/2018/10/21/040649‬)の続きのポエム。また何か書くかもしれないけど取り急ぎの気持ちの整理です。脈絡はありません。とてもポジティブです。


ファイナルライブ2日目。
ペンライトとドリカライトの光が波打つ武道館を、端から端まで見渡している石原壮馬がいた。
誇らしげな顔つきにも見えたし、目に焼き付けているようにも見えた。それから、初めて見るその光景を、どうしてか懐かしんでいるようにも見えた。
私は、壮馬の目が好きだ。深く濃い色をした大きな目は、きらきらとした輝きを放つ光源というより、目の前にあるありのままをありのままに映す反射鏡のようだと思う。温かく見守る瞳というより、何かを見透かす瞳なんじゃないかと思う。
彼の目に、昨日の、あの瞬間の光景はどう映っていたんだろうか。彼は、あのとき、どういう気持ちだったんだろう。何を考えていたんだろう。
私には分からないけれど、武道館の客席を見渡す目が、きらきらと輝く七色のペンライトの光をありのまま反射させてくれていたなら、そして、その光の中にある私たちの気持ちを少しでも見透かしてくれていたなら、それだけで十分報われるような気がする。

そんなこんなで(?)、土曜日に書いた(と言ってももうほぼ日曜日の朝だ)メモという名のポエムを読み返しながら、もうどうしようもなく自己陶酔ぎみの文章だなと恥ずかしくなりつつも、壮馬と奏はまた私たちの物語を進めてくれたんだとぼんやり考える。

一日経った今日、ひとりになってようやくツイッターのTLに目を通す中で、壮馬の最後の言葉の話を何度も見かけた。何人ものファンが、彼の言葉に救われていて、それってすごいことだよなと純粋に感動した。
いつだってそうだ。壮馬の言葉が私たちを救ってくれた。自分で書いていながら宗教かな??と思うのだけれど(実際宗教だよ)、だから、最後の挨拶の時だって、みんな、色々な感情を抱えながらも壮馬が何を話すのかを期待……というのが正解なのかは分からないけれど、でも、待っていたんじゃないかと思う。

話は変わるけれど、物語というものに正解はない。ここに辿り着けばゴールというものもなければ、万人の感情を動かせるストーリーというものも存在しない。
アーティストやクリエイターたちは、そんな中で、自分なりの答えを見つけて、それを世の中に発信してくれている。その物語が受け入れられるかどうか、生み出しているそのときには分からない。
みぞたくが20日の最後の挨拶でも触れていた慎くんの言葉にもあるけれど、歌はもちろんすべての作品・物語は世に出た瞬間にそれを受け取った人のものになるのだと私もよく考える。だから、そこでどのように解釈をされても、生み出した側から口を出すことはできない。
だけど、作品や物語を世へ送り出す仕事をする人たちは、その、世に出たときに受け手が何を思うかをきっと想像しながら生み出している。生みの苦しみ、というものは、そこにもあるんじゃないかと思っている。

だから、みんなの視線を一身に受けながら、言葉を発したときの壮馬も、何かしらそうしたら感情を抱えていたんじゃないか、と勝手に思った。
終わりたくねえな、とも、20日の最後に壮馬は言った。壮馬が言葉を発したら、その公演は終わる。色々なものが、あのとき、彼の背中に乗っかっていたんだろう。

壮馬の、あの言葉を、色々な人が、色々な解釈で受け止めているのをじっくりと読んだ。本当に様々な考え方があって、でも、みんな、ライブを迎える前の気持ちが少しだけ違う形に変換されているように読み取れた。
それってすごいことだ。人の心を動かす。転換する。それが、どれだけ小さな変化だって、彼の言葉で何かが変わったなら、もう革命と言っていい。ニュースターエボリューションかもしれない(適当すぎる)。
多分、私も、みんなも、抱いている悲しみや喪失感がなくなるわけじゃない。だけど、壮馬は、その抱いているものを違う角度で、違う尺度で見れる鍵をくれた。泣いてもいい、でも、その涙の意味をこうやって考えてみようよ、って。
壮馬が、サイエンスホールで武道館と言ったから。壮馬が、私たちをライバルだと言ったから。昨日の夜、武道館で、壮馬が「勝ち」だと言ったから、壮馬が私たちみんなが「ドリフェス!」だと言ったから。いつだって、壮馬は私たちに新しい道筋を示してくれてきた。

明日というものは、私たちがどう抗ったって、やってきてしまうものだけど、壮馬は、そのどうしようもない明日をどう受け止めればいいかのヒントをくれた。そのヒントを受けて、明日についてどう考えるかは私たちの自由で、だけど、壮馬の言葉は間違いなく、どこへ向かえばいいか分からずに立ち止まっていた私たちの足の先に足跡を残してくれたんだ。

少しだけ個人的な解釈?の話になるけれど、私は壮馬が私たちを「ドリフェス!」だと言ってくれたのに、実はとても感激した。
その場では少し笑ってしまったけれど、あとになってぼんやりとそのことについて考えていたら、それって私たちにとって最も欲しかった言葉なんじゃないかと思えて仕方がない。
土曜日のブログで、私は「私が愛したコンテンツが終わる」と書いた。終わるんだと思っていたし、実際に、ひと段落したのは確かだと思う。
けれど、私たちが「ドリフェス!」なら、「ドリフェス!」はまだ終わらないのだ。

少し前のブログで、

私が好きな演出のひとつに「劇場の壁が取り払われ現実へと物語が続いていくエンディング」というのがある。

柿喰う客『天邪鬼』を観て――イマジネーションを武装しろ - 推しのATMになりたい日常
という話をしたことがある。
簡単に言うと、劇中で描かれた物語が現実と地続きになるように(たとえば劇中の登場人物が現実世界へと飛び込んでいく、というように)終わる演劇作品が好きだ、という話なのだけれど、私は今回壮馬の言葉に同じことを思った。

ドリフェス!と私たちの関係は、最初、アイドルとファンだった。それが、壮馬の言葉によって、ライバルになり、昨日、ついにイコールで結びついてしまった。
ファンのままなら、正直、いつだってやめようと思えばやめられる。ファンのままなら、彼らが終わらせるものを見届けることしかできない。ライバルだって、そうだ。
だけど、私たちはドリフェス!になった(大真面目に書いています)。だから、私たちが終わらせない限り、ドリフェス!は現実に寄り添ってずっと続いていく。
先ほど挙げたブログの記事で「イマジネーションで武装して現実に挑む観客」についてを話したが、まさに我々はドリフェス!という鎧を手にして明日を迎えたのだ。

まだ感情がぐちゃぐちゃでさぞかしポエムな文章を書いているだろうとスマホに向き合いながら思うけれど、ともかく、もう、1日目の明日が終わろうとしている。
七人と七人のステージをファンとして見る機会が、この先あるのかは分からない。あったらいいなと思いつつ、ないだろうとも思う。
だけど、私たちはもう彼らと同じステージ上に立っている。壮馬が、私たちをそこまで引っ張っていってしまった。ドリフェス!の次のステージは、私たちが生きるいま、現実のこの場所で、そこに彼らもずっと一緒に立ち続けてくれる。だから、私たちはメンバーの一人として、石原壮馬と天宮奏をセンターにして、これから、昨日を超えていけなきゃいけない。

劇プレの現場で、初めて見た壮馬は、じゃがいもだと散々彼はいうけれど、とても顔の整った男の子で、モギリをしていてもすぐにアミューズの俳優だと分かった。初めて見た彼の作品で、驚くぐらいに素直な芝居をする人だと思った。だけど、こんな風に彼をセンターにする日が来るなんて思ってもみなかった。
ドリフェス!が始まった当時、未成年だった彼の、大切な3年間をドリフェス!に捧げてくれたことに、そして、彼らの、私たちのセンターでい続けてくれることを、心の底から感謝している。壮馬がセンターでよかった。センターになってくれてよかった。


かくして、壮馬は、私たちを彼らの物語の中に呑み込んだ。
我らがセンターの言うことは絶対!なのだから、だから、私たちは、彼の、彼らの紡ぐ物語の中で、これからも最高の先を目指さなくちゃいけないんだ。

猫ひたのツイートのタイミングには、しこたま笑ったけど。

ドリフェス!始まります!

私が愛したコンテンツ、ドリフェス!が今日終わる。
ドリフェスとユーザーの関係性は千差万別で、コンテンツに対して色々な見方があるだろうと思うけれど、私がこのファイナルのステージ・日本武道館の1日目で感じたことをつらつらと書いてみたいと思ったので久しぶりにブログをしたためている。
自分用のメモなのでとりとめなくネタバレもしています。脈絡はありません。



1日目、10月20日
実のところ、「ALL FOR SMILE!」の時点からステージ上に揃った7人の姿に涙がこみ上げるのを止めることができずにいた。
本当にこれが終わりなんだろうか、この曲を、彼らの姿を、こうして肌で感じることができるのもあと2回きりなのか。と、夢でも見るような心地でいる私に、涙を流しすぎるせいでじりじりと痺れはじめた手と頬が現実を突きつけていた。

そして、石原壮馬as天宮奏のソロ曲「Run After Blowin' Wind!」のイントロが、あの、武道館に響き渡る。その瞬間に、色々な感情がたちまち爆発した。

私にとって、ドリフェス!は、石原壮馬と天宮奏が紡いだ物語だったのだ。
ふとそう思った。震えと嗚咽が止まらなくなって、持っていたペンライトを膝の上に投げ捨て、タオルで顔を覆った。(2階の最前列だったので座っての参加だったのでした。)

ドリフェス!は、「ドリフェス!始まります!」という天宮奏の声で始まるコンテンツだ。そして、イベントの始まりを告げるのも、終わりを告げるのも、その多くがセンターである石原壮馬の声だ。
そして、武道館1日目の最後を締めくくったのは、14人の感謝の言葉を先導する奏と壮馬の二人の声だった。

私は長年俳優のオタクをやってきて、それ以外をあまり知らないので、グループやユニットでの活動をする人たちを応援するというのはこれが初めてである。だから、グループのセンターがどういうものなのかということはよく分からない。
最初は舞台演劇の座長のようなものなのだろうと思い描いていたのだけれど、もしかしたら違うのかもしれないと最近は思っている。
演劇は、あらかじめ終わりや展開を定められたある種完成した物語だ。もちろん、そこに役者の芝居や演出やそれ以外の色々な要素が盛り込まれ、そして観客の前で上演されて初めて完成するものではあるのだけれど、本の上では終わりと始まりが定められている。その枠の中でそれぞれの表現を重ねるものが、一般的に見る演劇のスタイルではないかと思う。
だけど、彼らの活動は違う。いや、実際は、大人たちが描いたプロジェクトという名の、既に完成された物語に緻密に組み込まれていたものなのかもしれないけれど、でも少なくとも、一般的にいうアイドルやアーティストの活動というものは、あらかじめ定められた終わりはない。
……もしかしたら、彼らの活動は、その狭間にあるものなのかもしれないけれど。

ともかく、俳優である彼、石原壮馬に、果たしてDearDreamというグループの、そしてドリフェス!というコンテンツのセンターを務めるにあたって、どのような苦悩があったかは分からない。おおよそ普通に俳優だけの仕事をしていたら味わうことのないようなことも多かっただろうと思う。責任感による重圧もあっただろうし、自分が本当にやりたいこととのズレに思い悩むことだってあったかもしれない。彼がどんな気持ちで、物語を初めて、そして終わらせるのか、私たちに知ることはできない。

だけど、私が知るDearDreamやドリフェス!は、間違いなく、石原壮馬と天宮奏を何かしらの軸にして成立していたんじゃないかと個人的に思う。
私の目には、石原壮馬が編み出す言葉が、天宮奏が誰かにもたらす感情が、彼らの、そして私たちの物語を形作っているように見えたのだ。
サイエンスホールの隣の武道館に立ちたい、という壮馬の言葉が最たる例である。壮馬がそう言ったから武道館での公演が実現した、とかそういうことを言いたいわけじゃない。この公演がどのようにして組まれたのか私たちに知るすべはないし、ファイナルの舞台が武道館になった本当の意図を少なくとも私は知らない。
だけど、壮馬が武道館が夢だと言った。もし、それがなくたって、武道館での公演というものはアーティストとしてのひとつの夢であることに間違いない。
でも、壮馬がそうして夢を言葉にしたことで、彼らの武道館での公演は、単なる公演ではなく、『夢の実現』という物語を手にしたのだ。

いままで、奏と壮馬が発した言葉が、彼らの物語が向かう先を指し示してきた。奏がそうだから、周りの彼らはそれに突き動かされた。壮馬がそうだから、周りの彼らがこうしたい・こうしようと思うことがあったかもしれない。彼がそう言ったから、私たちの、私の目に、武道館は『夢の実現』に映った。

すべては想像でしかないのだけれど、私は、天宮奏が石原壮馬だったから、いまのドリフェス!が生まれたのではないかと思う。もしセンターが別のメンバーだったら、まったく別の誰かだとしたら、私が愛したドリフェス!ではなかったかもしれない。それは、もちろん、奏と壮馬だけではなく、メンバー全員に言えることだ。
だけど、天宮奏は、石原壮馬は、DearDreamとドリフェス!の確かな要だったのだ。少なくとも私はそう思いながら、彼の、歌声を聞いていた。


明日、私が愛したコンテンツが終わる。
いまは悲しくて寂しくて仕方がないけれど、奏と壮馬が、そして、14人の彼らが、私の明日をその先へと続く何かにしてくれるんじゃないかとそう思いたい。奏と壮馬が、彼らを、私たちを最高を超えたステージへ、明日へ、連れて行ってくれるのだと信じたい。
だからいま眠れないのは、不安だからじゃなくて、その先への期待に胸が膨らんでいるからなんだろう。きっと。

武道館に立つのは誰か――ドリフェス!「FINAL STAGEライブ」の名称によせて

ドリフェス!プロジェクトに、区切りのときがきました。
この二年半、長かったようで短かったような、なんだか一瞬で今日を迎えてしまった気がします。
私とドリフェスの出会いとか、みんなが語っているみたいに書き綴ってみようかなと思ったんですが、記憶力がポンコツなのでとりあえず早々に諦めて、少しだけ私のささいな願いの話をします。
相変わらず推敲はしていません。


プロジェクトの終焉に向けて、ドリフェス!の「FINAL STAGEライブ」が発表された。
「FINAL STAGEライブ」って、本当に終わりなんだなと思います。思うのだけど、この、「ファイナル」ってなんの「ファイナル」なんだろう。
今回、このステージで「ファイナル」になるものってなんなんだろう。

アプリの最後のイベントタイトルは「Thank you for your YELL! D-Fourシアターラストライブ」。
あらすじはこう。

これまで何度もライブをしてきた思い出の場所、D-Fourシアターの移転が決定。最終日のステージを飾ることになったDearDreamとKUROFUNEは、移転を寂しがるファンを勇気づけるため、ある企画に臨む。サイコー超えたその先へ、未来に向かって走り続ける彼らのラストステージをお見逃しなく!

[ http://www.dream-fes.com/news/120.php]

つまりD-Fourシアターの最後を、DearDreamとKUROFUNEが飾るイベントを描いたストーリーなんだろう。
いままでのファンミーティングがそうだったように、パシフィコ横浜がそうだったように、ここに「FINAL STAGEライブ」が「ラストライブ」とリンクするんだろうか。
……いや、ぜんぜん違うよ! 多分、きっと違うと思う。イベントシナリオ読んでないからまだ分からないけど、このあらすじを読む限りでは多分違う。
ここでいう「ラスト」は思い出の場所の最後で、彼らとの最後じゃない。ここでいう「ファイナル」は、きっと、彼らとの最後だ。
2次元と3次元の彼らの経験がリンクしていく構造を極めてきたこのプロジェクトだからこそ、「FINAL STAGEライブ」=「D-Fourシアターラストライブ」にはできないと思う。できないでしょ、そういう風に私を育てたのは公式だよ(?)。
もうどこにも逃げ場はないし、そんな都合よくそこだけすり替えるなんてできたら苦労しないんだよ。勝手に切れてる。

いままで2次元の彼らは3次元の彼らと一緒に、‬14人でステージに上がってきた。
それと矛盾するようだけれど、私は、それでも、てっきり2次元の彼らは彼らの世界でずっとアイドルを続けていって、いつかレジェンドと呼ばれるようなアイドルにまでのぼりつめるんだろうなって思ってた。
3次元の彼らにだって、俳優として、声優として、アイドルとして、DearDreamとKUROFUNEとして、これから先もずっと私たちの前でパフォーマンスをしてほしいけれど、それは難しいのかもしれないと思ってもいた。
でも、2次元の彼らは、それができる。ずっとアイドルでいることができる世界線にいる。
じゃあ、この「ラストライブ」が「FINAL STAGEライブ」とイコールにならないとしたら、そしたらこの「ファイナル」って何の「ファイナル」なんだろうって思うじゃないですか。

プロジェクトの終わり、としての「ファイナル」だとしたら、それは2次元の彼らにとってはメタな「ファイナル」になる。ドリフェスというコンテンツの「ファイナル」であり、それに紐付くキャスト展開を含めた、アニメやアプリ・DCDなどさまざまな商業展開のための「ファイナル」であり、そこに二次元の彼は存在できない。3次元の軸における「ファイナル」は、2次元の彼らのアイドル人生には関係がない。
もしかしたら、3次元のDearDreamやKUROFUNEは、この「FINAL STAGEライブ」を経てドリフェス!を離れたあとでも、何らかの形でアーティスト活動を続けてくれる未来があるかもしれない。だけど2次元の彼らは「FINAL STAGEライブ」に上がることなく、ドリフェス!という閉じた箱の中でこれから先もずっとアイドルを続けていく。3次元と乖離して、2次元の世界のなかで。

そうではなくて、2次元の彼らにとっても3次元の彼らにとっても等しく「ファイナル」ってことなら、それは14人の彼らのDearDreamとKUROFUNEというアイドルとしての形が「ファイナル」ってことになる。一緒にゴールテープを切って、その形を卒業してしまう。

私は、奏くんたちにはまだまだゴールテープを切ってほしくないし、これからもずっとアイドルでいてほしい。
だから、提示された「ファイナル」という言葉が前者にあたるんだ、と思いたいけれど、そう思うということは、二次元の彼らは「FINAL STAGEライブ」に立たないと考えることになってしまう。
14人のステージなはずなのに、5次元と謳ってきたコンテンツがそちら側からそれに終止符を打ってくる。いままでのはぜんぶ夢だったんだよって言うみたいに。

私は、彼ら14人に武道館のステージに立ってほしい。だけど、「ファイナル」を冠したライブなら14人ではステージに立ってほしくない。
もしかしたら、7人だけで立ってくれた方がいいのかもしれない。それだったら2次元の彼らはずっとアイドルを続けてくれる。続けてくれる限り、もしかしたら、ここで閉ざされた箱がいつかまた開いて、2次元と3次元が融合してくれる日が来るのかもしれないって思えるから。
だけど、7人でドリフェス!のステージに立つということは、このプロジェクトのコンセプトを真っ向から否定することだ。そんなことを、多分彼らも、大人たちも、きっとしない。

ドリフェスは、彼らが7人ではなく14人であることにとても価値のあるコンテンツだと思うのだけど、でも、だからこそ、「ファイナル」という言葉があまりに残酷だなと思ってしまう。どうしようもないと分かってるけど。

まあきっとでもドリフェス!はそこを、なんかこう、いい感じにつじつまあわせて理想の形の「FINAL STAGEライブ」をやってくれるんだと信じているけど。でも、もし14人でステージに立つというなら、ライブ名は変えてほしいです!!!




余談。
忘れもしない2015年11月7日。ナンジャタウンの前で溝口くんから受け取ったドリカ。ステージの整理番号は2番。私が入ったドリフェス!の現場で一番いい番号だったから、今でも覚えてる。ティッシュ配りのようにして、客からの塩対応にも笑顔で、ドリカを配っていた彼らが、緊張した面持ちでぎこちないながらも懸命にステージを盛り上げようとしていた彼らが、およそ3年後に武道館に立つ。どんな現場にも通うようになったのは約1年後からで、お世辞にも古参とは言いがたい、中途半端なファンだと思う。ここでいま二年半を振り返って言葉にしてしまったら、ぜんぶを思い出にしてしまう気がするから、この先は武道館を終えるまでとっておきます。
あの日もらったキャンディブロックのドリカを武道館で飛ばす日、きっと私は泣いてるんだろうなあ。パシ横の夜は、泣きながら第一声で「金を払わせろ」と言ってたな。金を払ったら、みんなを明日へ連れてってあげられるかな。わがままだから、まだわがままに、続いてくれって言うよ。わはは。

DearDreamの動画をひたすら貼っていくだけ

1/10からDearDreamのツアーが始まるので、とりあえずオススメの動画をただ貼っておくブログを書いたぞ! 順不同。


◆「Real Dream」MV

嵐の「Happiness」のMVっぽい。とりあえず可愛い。ハンサム好きな人はだいたい好きだと思う。ダメージジーンズがすごい。富田くんはもはやショーパンの域。溝口くんは萌え袖。


◆「シンアイなる夢へ」MV

5人で合宿してるやつ。私服。アイドルの私服はみんなだいたい好きだと思う。郁くんがちょっとお兄系なのがいい。かわいい男子が料理してるのはサイコーに国宝。


◆「ユメノコドウ」MV

屋上ってオタクが一度は通る好きシチュエーションだと思う。ぶかっとしたアウターが可愛い。スタジオの衣装、実は石原くん富田くん/溝口くん太田くん正木くんでインナーが違う。こういうの多分みんな好き。


◆「PLEASURE FLAG」MV

スーツって最高だな〜と思うMV。溝口くんが着てるベストみたいなやつがすごく色っぽくていいと思う。富田くんはまたダメージしすぎてるジーンズをはいてる。石原くんの前髪が主人公っぽい。


◆「Paradeが生まれる」MV

溝口くんがタートルネックに萌え袖で本を読んでるのは本当にすごいと思う。あと溝口くんが富田くんの耳にカメラ用のブロワーで空気を吹きかけてる(?)のもすごい。太田くんが少年みたいな顔をしてる頃。


◆「NEW STAR EVOLUTION」MV

デビューシングル。衣装が三種類見れる。ストリート系ファッションの衣装がかわいい。白のジャケットのシーンで逆光で画面の大半が白く飛ぶとこがあるんだけど、天使だからかなと思う。


◆ 「ドリフェス!R」スペシャル 勢いだけじゃない7人の軌跡
どういう子たちなんだろーと気になったらこれを見てくれ。
アプリをDLすると無料で見られます。(〜1/11 23:59)


◆とりあえず何か一つ買うなら
Blu-ray「Documentary of DF Project」

上記MVのフルバージョン他メイキングも収録されています。
メイキングがすごい。とってもかわいい。ハンサム好きな人に見せたい。


◆キャストツイッター
石原壮馬 (@ishrsm) | Twitter
溝口 琢矢 (@5mizo_taku9) | Twitter
富田健太郎 (@tomikenchan82) | Twitter
太田将熙 (@masakiota1025) | Twitter
正木郁 (@ksfa79) | Twitter


◆とても分かりやすい自己紹介が載ってるインタビュー


◆他にも動画いっぱいあるから気になったら見てね!
Youtube ドリフェス!チャンネル

・アミュモバ(月額300円)
各イベントのバックステージを彼らが撮影した「裏ドリ」からオフショットギャラリーまでとにかくコンテンツが充実しすぎていて300円安すぎる。

・STOLABO TOKYO(月額500円)

アニメイトチャンネル(月額500円)
3/31にサービス終了してしまうので、新規会員登録は2/20まで!
ドリフェス!研究室が最高に面白い。アニメも見れます。

ドリフェス!ラジオ(毎週土曜19時更新)


◆ DearDream 1st LIVE TOUR 2018「ユメノコドウ」
そんな彼らのはじめての全国ツアーが1/10から始まります!

・東京 2018年1月10日(水)
TOKYO DOME CITY HALL
開場 18:00 / 開演 19:00
・福岡 2018年1月13日(土)
アルモニーサンク 北九州ソレイユホール
開場 17:00 / 開演 18:00
・大阪 2018年1月20日(土)/ゲスト:KUROFUNE
Zepp Osaka Bayside
開場 17:00 / 開演 18:00
・愛知 2018年2月11日(日)
一宮市民会館
開場 16:00 / 開演 17:00
・神奈川 2018年2月25日(日)/ゲスト:KUROFUNE
パシフィコ横浜 国立大ホール
開場 16:00 / 開演 17:00


◆チケット情報
当日券もあるようですので、お時間が合いましたらぜひ!
・e+
DearDream|e+(イープラス)チケット販売・予約
・チケットぴあ
http://md-search.pia.jp/pia/search_all.do?kw=DearDream
ローソンチケット
DearDreamのチケット検索結果|チケット情報・販売・予約は ローチケHMV[ローソンチケット]


できるだけ簡潔にまとめたので、興味を持った方はぜひ色々調べてみてね!

『オーバーリング・ギフト』雑感――失われる物語

『オーバーリング・ギフト』を観劇してまいりました。
久々のアミューズ作品、風間由次郎くん初の演出・脚本、そして私自身今年なかなか観劇できていないので、テンション高く挑んでまいりましたので、せっかくなので考察的な話を真面目に、とりとめなく、しようと思います。
ネタバレありありなので、未観劇の方はご注意ください! 一度しか見れていないので、間違ってても許してください。相変わらず推敲はしておりません。こじつけなのはいつもです。
ちなみにパンフ未読です。書き終わったら読みます。

あらすじはこちらでどうぞ↓



脚本や演出に関して思うところはたくさんあったのですが、風間くんの創りたい物語の形が見えたのがとても興味深かったです。特に舞台装置と物語構造の妙に心惹かれたので、そこについて勝手な解釈をだらだらとお話しします。


まるで、私たちが生きる「現実」に「創造(物語)」で挑んでいくような、そういう挑戦的な意味合いを孕んだ作品だったのではないかと個人的には感じています。
私が観た中でいうと、柿喰う客の『天邪鬼』や地下空港の『タガタリススムの、的、な。』のような(詳しくはこちらの記事で書いています。)、演劇のイマジネーションの力を信じて、私たちに語りかけてくる、そういった類の熱さでしょうか。

岸谷五朗さん演出のアミューズ舞台『FROGS』をどこか彷彿とさせる雨のシーンから、作品はスタートします。オープニングがあけて、猪塚健太演じるアスターからストーリーが動き出し、舞台装置を役者が稼働させる姿を見て、私が一番最初に感じたのは「まるで絵本(物語)のページを捲るようだな」ということでした。

オーバー(リングを持つ者が住む世界)の裕福な家庭に生まれたアスターは、街の端に佇む壁の向こう側から聴こえてくる美しい歌声に心を惹かれます。壁の向こうにはどんな世界が広がっているのだろう、と未知への期待に胸を膨らませながら。
そんな彼の前に、突然壁の向こう側=ロスト(リングを持たざる者が住む世界)から、溝口琢矢くん演じるトトイが飛び出してくる。手にしたリングを狙う何者かに追われ、殺されそうになる彼を、アスターは自分のリングと引き換えに助けます。リングよりも命が大事だ、リングを外したって、俺は彼らと変わらない。そう信じて、その先に待ち受ける苛酷な未来をこれっぽっちも知らずに。

この作品における舞台装置を、仮に、絵本と見るなら、この作品は、「絵本の物語に迷い込んだ少年(読者かもしれない)のお話」と捉えることができるかもしれません。
壁の向こう側から聴こえてくる声に惹かれるアスターは物語世界に憧れる少年(現実世界の読者)であり、トトイは現実世界に迷い込んできた物語の登場人物だ、ということです。

ちょっと話が逸れます。
私は、何か専門的な知識はまるでない素人なのですが、小説や絵本などの物語には、いくつか決まりごとというか法則というかパターンというか、そういうものがありますよね。物語原型、とはまた話が違うのかな、忘れました。
今回の作品を「現実世界の人間が異世界に迷い込む」という構造だと見ると、現実世界から異世界へ、そして異世界から現実へ、行き来するには、何かしらのキーが必要となる場合が多いように思います。たとえば、何かを代償にするとか、ある入り口からしか出入りできないとか、何かしらの資格を持たねばならぬとか。
ぱっと思いついた誰でも分かりやすい例で言えば、映画『千と千尋の神隠し』でしょうか。こちらに関しては詳しい考察が鬼ほどされていると思うので、あまり深入りはしないのですが、あの作品では主人公・千尋は、異世界で生きるために、湯婆婆に名前を奪われ「千」と名付けられます。そして、本当の名前を忘れれば現実世界に戻れない。名付けという行為による支配、とも言えるのですが、それはまあ置いておいて、とにかく現実世界の名前を奪われる・失う、その世界での名前を授かる。それが、『千と千尋』の世界を生きるために必要なことであり、その奪われた現実世界での名前を忘れないことが、元の世界に戻るための条件と言えます。
『オーバーリング・ギフト』で『千と千尋』の名前に当たるのが、リングです。リングのあるなしが、その人がその世界にとってのインサイダーかアウトサイダーかを定めています。
この作品で面白いのは、オーバー(アスターが住んでいた現実世界)の方がロスト(ここでは物語世界とします)より、その世界に所属する人間として認められることが難しいというところ。リングは『生まれ持っているものではなく金銭でしか手に入れられないもの』であり、『一度外せば二度とつけることができないもの』です。つまりオーバーに存在するためのキーは、チャンスは、一度しか与えられません。生まれたばかりの赤ん坊は皆ロスト<人>(ロストには、世界と人のどちらも指し示す言葉なので<人>と表記しますね)である、と考えると、オーバーとロスト、どちらが現実世界なのか……考え始めると頭がこんがらがるので、ここではスルーさせてください。

話を戻します。
とにかく、この作品を「絵本の物語に迷い込んだ少年のお話」と見て、紐解くとまた違った面白さが見えてきます。

リングを失い、オーバーから追放されたアスターはロストへと迷い込みます。(ここで、アスターは父親から家を追い出されているのですが、その先をオーバーの別のどこかではなく、ロストへと求めるのが面白いですよね。アスターにとって、現実世界とはイコール父親支配下である、と考えると、ますますオーバーの方が異世界なのでは……と思ってしまうのですが。)
そこで、オーバーで聞き惚れていた歌声の主・サクヤ(中村百花)と出会います。ですが、アスターはあれほど焦がれていた歌を、歌うのをやめてくれとサクヤに訴えるのです。
たとえばの話ですが、私たちが、彼のように未知の世界に、たとえば何か小説や絵本の世界に、いきなり放り込まれたら、どう感じるでしょうか。ページの外から眺めている分には美しくて面白くて憧れの世界だったとしても、それがいざ目の前で現実になったとしたら、実際に、自分と同じ地平線の上で起こっている出来事だとしたら、きっと恐ろしく思えてくるんじゃないでしょうか。アスターは、彼女の歌に対して、もしかしたら同じような感情を抱いたのかもしれません。

ロストの世界に怯えながら彷徨っていたアスターは、自分が命を救った少年・トトイに助けられ、そして、トトイとその家族、父親・ミロコ(加藤潤一)、兄弟同然のルージュ(島ゆいか)から、ロストでの居場所を与えられます。けれども、アスターは、彼らに怯え、与えられた居場所を受け入れられず、またリングを二度と手にすることができない苦しみに耐えかねて、彼らの元から飛び出してしまいます。
それは、まだ、アスターが自分はオーバーの人間だという思いを捨てきれないからなのではないかなと思います。才能の入ったリングを持たざる者になってしまったと怯え、嘆くのは、未知の世界が恐ろしいのは、オーバーで生きる人々の方にこそ価値を感じ、オーバーの価値観によって物事を捉えているからでしょう。

それを変えるのが、サクヤの歌です。
トトイたちの元を飛び出して、サクヤと再会したアスターは、サクヤのような美しい歌をうたう人さえ、ここロストではリングを持たざる者だと知ります。リングを持たざる者でも、こうした力を持つことができる。リングの価値によって支配されていた彼の価値観や思想が、ここでがらりとがらりと変わります。
余談ではありますが、人が持つ価値観や思想を転換させるということは、当然簡単ではありません。でもサクヤの歌にはその力がある。それを観客にも納得させるだけの力が、中村さんの歌にはこもっていました。こういうことはミュージカルの表現でしかできないですよね。すごい!(ルージュとサクヤの恋にまつわるやり取りの話には展開は些か強引さが否めなかったのですが、中村さんの歌の説得力で納得してしまうのですよね…。)
アスターがトトイたちの元へ戻るとき、彼は廃品を集めたゴミ袋を持っていました。働く。仕事をする。それは、その世界で生きる、その世界の住民となる決意の表れだと思います。
そうして、彼はオーバーでの価値観や思想を捨て、ロスト<人>へと生まれ変わりました。「絵本の物語に迷い込んだ少年のお話」という視点から考えれば、彼は、現実世界の人間から、物語の登場人物へと転身したのです。

この後にカゲツ(富田健太郎)の話があるのですが、カゲツに関してはまだ少し考えがまとまっていないので、省略させていただきます。一気に、トトイの死まで飛びます!

……という訳で、物語の登場人物となったアスターは、カゲツを救うためにリングの密売に手を染め、そして、そこでトトイを失います。
なぜリングの売買がオーバーで禁じられているのか。リングの持つ意味とはなにか。私はまだ答えが出せていません。
ただ、そこから分かるのは「絵本の物語に迷い込んだ少年のお話」という考え方をすれば、「リングの売買はロスト(物語世界)で完結しなければいけないもの」だということです。
もし仮に、現実世界へ自由に物語の道具や出来事が持ち込めるとしたらどうなるでしょうか。現実世界と物語世界では、法律も、常識も、価値観も、思想も、何もかもが異なります。それがもし無法地帯になったとしたら、訪れるのは混沌です。たとえば「自由に人を殺してもいい」という法律が物語世界の中であったとして、それが今の日本で突然行われるようになったとしたら、日本中が戦慄するに違いありません。
つまり物語世界のことを、現実世界に持ち込むことは、基本的にはタブー、罪にあたるのです。
それは、モノやコトだけではなく、人もそうだと思います。仮にアスターがサクヤの歌にも心を動かされず、オーバーの人間のままであったとしたら、きっと彼に待ち受けるのは死だったと思います。もしかしたら、どんでん返しのような革命を起こすことだってあり得るかもしれませんが、そこで革命を起こすには、結局ロストで生きるすべを見つけなければなりません。その世界に存在することができるのは、その世界の人間だけ。そうでないままに、そこに存在することは罪なのではないでしょうか。
そう考えると、なぜトトイが殺されたのか。なぜアスターに罰が下ったのか、分かるような気がします。
アスターは、オーバーでのリングの密売に手を染め、リングを持たざる者にもかかわらず、つまりオーバーに存在するためのキーを持たずに、オーバーに何度も出向いていました。そしてトトイは、アスターというオーバーの一部であった人間の運命を大きく変えてしまった。もしかしたらカゲツの父親を救えなかったのも、カゲツの手元にある金が物語世界の住民によって生み出されたものだからであるのかもしれません。
トトイは死をもってそれを贖い、カゲツは大切な人の死によって罰せられ、アスターは大切な人を失い、更には救いたかった人を救えなかったことで罪の重さを知るのです。

ここで話は変わるのですが、もしこの作品が「絵本の物語に迷い込んだ少年のお話」だったとしたら、主人公はトトイだと個人的に思っています。
トトイというキャラクターには、主人公の原型に通ずる要素がめいっぱい盛り込まれていました。たとえばルージュ(ここではヒロインでしょうか)の思いに気付かずにいる鈍感さなんて、こういう主人公いるいる!って感じでしょう!!決めつけてすみません!!!!
何より、この世界のキャラクターは、基本的にトトイを軸にして登場しています。ミロコは「トトイ」の父親であり、ルージュは「トトイ」の家族であり、サクヤは「トトイ」の父親の友人です。こじつけっぽいことは分かっているので突かないで下さいお願いします!!

とにかく、この物語世界における主人公をトトイと見たとき、このお話は彼の死によって、幕を引いても良かったはずなのです。トトイが愛を教えてくれた、それだけでも十分完結します。実際私ももう終わりかなーなんて観ていて思いました。だけど、そうはならない。

ここで登場するのが、演出脚本を手がける風間由次郎演じるイラッシュ。市長の息子であり、ミロコとサクヤの古くの友人である彼の介入してくるのです。
それをどう見るのか。「絵本の物語に迷い込んだ少年のお話」の視点から言えば、それは物語、創造の力に怯える現実世界、読者が、その力をどうにか支配しようとしている様と見ることができます。
壁をより高く強固にして、出入りを禁じ、規制を敷く。そして、自らの支配下に置こうとする。こういう図式は、いま、まさに私たちが生きる現実世界でも、残念ながら、よく見られる光景であります。
オーバーの人間は、ロストのことを知らない。あくまで架空としてしか認識していない、のかもしれません。でも、もしそんな世界が本当にあるとしたら。その世界から、現実世界に何かを持ち込まれたとしたら。アスターがロストに初めて訪れたときのように、オーバーの人々は怯えている。もし、その物語世界の影響を受けて、現実世界で大規模なパラダイムシフトが起これば、それこそ革命です。リングが意味を持たなくなり、リングに価値がある世界だからこそ、権力を振るうことができるイラッシュの立場を考えれば、絶対に避けねばならぬ事態でしょう。
イラッシュも、昔は、ロストに憧れた少年だったのだと思います。けれども、大人になり、リングの価値を実感して、そんな過去は汚点になってしまった。それは、大人になることへの皮肉のようにも思えます。
これもまた余談ですが、そんな役を担うのが、今回初めて作品を手がけた風間くんだというのも、また面白いですよね。

壁が強化され、オーバーへの出入りができなくなる。オーバーに管理されるようになる。その決定を前に、アスターはロストを出ようと提案します。皆もそれに導かれ、彼らは、壁を破って、外の世界へと飛び出しました。
ここでようやく、冒頭で触れた私たちが生きる「現実」に「創造(物語)」で挑む試みの話になります。

この舞台は、二重構造のような仕組みになっているように見えます。
つまり、劇場を見れば、客席/舞台であり、舞台上を見ればオーバー/ロスト、という形で、劇場にまず二つの世界があり、その中のうちのひとつが二つの世界に分断されているのです。
ところが、アスターがロストの住民になってから、オーバーの様子はまったく描かれなくなります。最初は、客席/舞台(オーバー/ロスト)であったのが、いつのまにか客席/舞台(ロスト)になっている。
そう捉えたとき、彼らが壁を、ページを破り、飛び出していった先はオーバーなのか、客席、つまり私たちが生きる現実世界なのか。
そう思わせてくれるところに、私は、私たちが生きる「現実」に「創造(物語)」で挑んでくるような、熱いものを感じるのです。ロストの、物語の世界の住民たちが、彼らに怯えるオーバーの人々に、そして、それを傍観していた私たちに対峙してくる。物語は、創造は、私たちが決して支配できない、自由なものであるのだ! そういう叫びさえも私たちの耳に、直接、聞こえてくるようです。
風間くんが、物語の力を、創造の可能性を信じている、確信している人だからこそ、こうした作品が出来るのではないかなと思います。そういう意味で、私は、彼に、とても引きつけられました。


一応語りたいことは語り倒してみたのですが、ふたつほど、これもまた結論が出ていない話をします。

まず、アスターについて。
アスターは、世間知らずで夢見がちな正義漢の少年だなあと思っているのですが、彼そのものが、本当に変わったのはトトイを失った時だなと感じています。
カゲツと出会い、彼を救いたいと思った彼の行為は、シチュエーションは違えどもトトイを助けたときの彼の性質と同じところからきているように見えました。生きる世界が変わったにも拘らず、です。
それはきっと、そのときの彼には居場所があったからかなと思います。オーバーで家族を失い、生きる場所を失った彼には、絶望の淵に立たされて間もなくロストという場所が、そしてトトイたち家族が与えられます。慣れてみればオーバーよりも気が楽で居心地がよいと思えるような場所を、つまり平和を得ていたから、変わらなかった。
でも、トトイを失い、更には自分の居場所をも奪われる事態に直面して、ようやく彼は失うことへの苦しみのすべてを知ったのではないかと思います。ロストを飛び出した彼は、きっと今までのように、無鉄砲に人を救うなんてことできないかもしれない。失うことへの恐怖が、彼の中には刻まれ続けるから。だけど、それでも、アスターには人を助けたいという想いが根深く残ってくれたらいいと、私は思っています。

そして、もうひとつ。トトイがこの物語世界の主人公だったとして、の話に戻ります。
そう考えたとき、ロストとは「主人公が失われる物語」でもあるのではないかと思います。つまり、トトイは罪を犯したから罰せられたのであるとともに、「主人公だから」死なねばならない運命にあったのかもしれない。
じゃあ、物語の主人公が死んだとき、その物語は一体どうなるのでしょうか。主人公が死ぬ作品というものは、もちろん珍しいものではありません。たとえば主人公が代替わりしたり、主人公の手記や軌跡を誰かが追い続ける形で、続いていく作品も多くあります。
では、ロストは、これからどんな物語を紡いでいくんでしょうか。主人公は、物語を物語足らしめる存在です。主人公が代わるならともかく、新しい主人公が立てられないのであれば、その物語世界は、主人公の手記や軌跡を、つまり過去を追う形でしか存続できません。つまり、いま、そこにある世界は、ロストは、主人公の死とともに、トトイの死とともに、死に絶えてしまう。
そう言った意味でも、残された彼らが、いま、を生きようとする限り、ロストに居場所はないのかもしれません。だから、彼らは外へと飛び出していく。もしかしたら、その先で、彼らを主人公にした新しい物語が始まるのかもしれない。そう考えるとワクワクしますね。


言いたいことは八割がた話せたので、最後に本当に本当に個人的な感想です。
風間くんの思い描く物語を、アミューズという箱で、地球ゴージャスとRENTに通ずる表現技法で作り出したような印象の作品でした。もしかしたら、箱や表現技法が変わっていくことで、今後の彼の作品がどうなっていくのか変わるのかもしれないなあと素人ながらに思います。
トトイは、RENTのエンジェルのような存在だと勝手に感じていたので、そんな役を溝口くんが演じてくれたことが、個人的に嬉しかったです。

そんなこんなで欲望のままに終わりにします。まだあと一回は観られそうなので、そのときに何かあったら追記しようと思います。

非常に好きな、熱いテーマ性を勝手に感じてしまうような作品でした。それを表現する技法が、果たして今の形で相応しいのかどうかにはやや疑問が残りますが、それでも彼がどんな物語で私たちに挑んでくれるのか、それを期待して、次の作品も是非見てみたいと思います。

1年ぶりのブログでハンサム!とドリフェス!の話をします。

ドリフェス!とハンサムの信者みたいなブログなので、アゲすぎ勘弁しろという方はお気をつけください。
※ハンサム=アミューズの若手俳優たちが年末に打ち上げる花火。また、そこに出演しているハンサムな若手俳優のこと。昨年SUPERハンサムLIVEからハンサムフェスティバルに進化しました。
※多分論理は崩壊していますし話があっちこっちに飛びますが、思いつくまま書いてるので、こういうものだと思って許してください。



久しぶりにブログを書きます。
さきほどまでは仙台に、昨日は北海道にいました。こんばんは。

振り返ってみれば、最後に書いたのがほぼ一年前という事態だったので簡単に近況報告をいたしますと、「推しを追って再び海外渡航したり、別の推しの結婚を機に降りたり、推しを増やしたり減らしたりしていた一年」だったわけですが、多分一番大きいのはドリフェス!沼にずぶずぶになってしまったことかなと思うので、今回はそれについて触れようかなと思います。
……とはいえ、ドリフェス!民は結構はてブロユーザーが多いようで、もうドリフェス!はいいぞ的な話は先人たちが素敵な言葉でしたためてくださっているので、なんか、なにかしらそれ以外のことをとりとめなく話します。

私がドリフェス!というプロジェクトに触れたのは、バンナムGとアミューズのオーディション開催のお知らせだったんですが、まあその辺りの話は「こちら」で触れているので割愛します。(いま読み返すと混乱のあまり何を言いたいのか全く伝わってこなくて面白いぞ! その前にアミューズランティスバンナムクリエイティブが業務提携して海外展開するよ!とかいう話を見かけてたので、なんかよく分からないけどドキドキしました。そういえば、また別のオーディション始まってましたね。)
いくつかイベントに行ったあとに、まあしばらく諸般の理由により追えたり追えなかったりだったわけですが、アニメが始まって、ちょっとしてからようやく完全に気持ちを切り替えて、ドリフェス!と推しくんが人生!みたいな生活を送っています。人生何が起こるか分かんねーな!

私がドリフェス!にはまった一番の要因は(もちろんリアドリが大きいんですけど、それと)もう散々語り尽くされていますが、【ユーザー=ファン】というポイントです。

最近ヒットしている複数男子もののソシャゲはプレイヤーがキャラクターにとって特定できる個人であり、かつそれに応じた役割を与えられているものが多いと思います。その役割がキャラクターたちにとっては欠かせない重要なもので、それに対しての責任がゲーム上で発生し、それを果たすことがゲーム性につながっています。そして、その報酬として、普段見ることができないような彼らの裏側や、プライベートを覗くことができたり、そこに自分が入り込むことができたりします。
なので、キャラクターとの一対一の関係を楽しむもよし、恋愛ゲームとして楽しむもよし、主人公の視点からわちゃわちゃを楽しむもよし、ユーザーとしてどのスタンスで楽しむかの選択肢がたくさん用意されていて、実に間口が広いなあと感じています。ちなみに私は主人公の名前をモブにして、わちゃわちゃを楽しむ派です。でも!名前がモブでも!主人公だから!存在感は!消せない!ンンッ!(認知されたくないオタク)

けれども、ドリフェス!は、キャラクターとユーザーの関係を完全にファンだけに絞っています。
そこに何かの責任が発生することもなければ、私たちが彼らのプライベートに介入することもない。ユーザーに見せられるのは皆一律の表の顔だけ。プレイヤーには主人公としての価値観などは一切なく、ただファンのひとりとして、ライブチケットをもぎり、部屋の壁を推しで飾り、ライブに行くための体力を養い、ドリカで服を貢ぐばかり。
それが、先ほどの話に照らし合わせれば、つまりは新規参入の間口を狭めているということもあるかもしれませんが、でも、私にはとても心地よいんです。

それはどうしてかって、そうしてユーザーの立ち位置を定めているところが「アミューズ」が噛んでる企画らしいなあとぼんやり感じたからなのだと思います。そうです、私が箱推し勢です。(そもそも私はTHE GAME 2009あたりで初めてアミューズに触れたのですが、その年のハンサムはチケット戦争に負け、しかも当時の推しは事務所舞台に出ない子で、それほど箱推しMAXで活動してきた訳ではないので、いつまでも新規という大義名分で好き勝手言っています。)

ちょっと話が逸れますが、若手俳優を輩出している事務所は数多くあり、そこに所属するタレント、そのタレントにつくファンにはそれぞれ特色があると思います。
私は、アミューズが毎年開催している年末ライブ(ハンサム)に行くたびに、そこにいるファンに対して「オタク」だなあと感じます。それはいわゆるオタクと呼ばれる漫画やアニメがコアに好きな人たちが多いということではなく、「●●が好きな人は仲間!」みたいな、妙な一体感というかホーム感のオタクみというか…伝わるだろうか……。(私は二重の意味でオタクです)
ハンサムって、ファンの年齢層も服の趣味もみんなバラバラで、一緒に来ている友達同士でさえも全然タイプが違ってたりして、どんな人が多いとかって最大公約数みたいなのが見つからないように思います。
でもいざライブが始まると、あんなにバラバラだったみんなが推し以外の名前も呼べちゃうし、彼らのオリジナル曲のフリとかも何も見ずに踊れてるし、コールもできるし、アンコールで運営側が意図してない形で客席が一体となってオリジナル曲の合唱とかしちゃうし、なんならハンサムが忘年会みたいなところあるし。
普段はそれぞれ別のところで自分の推しを追っかけてるのに、「ハンサム」っていう箱に対して、ファン全員が同じ場所に立ち、それぞれ最大限の熱量で向かっていく一体感があるというか、数年ここにいるともう年末に一度は帰る我が家みたいな。つまり、ハンサムは実質第二の実家です。今年の年末も実家に帰りたいです。

あと、もうひとつ、ハンサムのファンには、これは私の周りだけなのかもしれないんですが、男の子がわちゃわちゃしているのを見ているのが好き、という人が多いような気がします。漫画でいうと『虹色デイズ』とか『君と僕。』とかそういう感じの男子たちというか(実際に、ファンがこれらの作品を漫画として好きかどうかは別だと思いますが)、こう……なんじゃろ、わかるか……?(それは、ハンサムはもちろん、かつての宝石シリーズやFROGSなどの事務所の若手俳優を起用したアミューズの自社制作舞台や、その他イベントなどで、とにかくみんな一緒に仕事してることが多かったから、自然とそういう人が集まってきていだというのもあると思います。最近は、みんな個人個人のお仕事を抱えている俳優さんたちが多いので、個人についたファンの方もいらっしゃって、また違うのかなとは感じていますが)
その、わちゃわちゃしてる男の子たちの姿って、基本的にはステージ上だとか配信番組だとかツイッターだとか向こうから発信される形で届けられて、こちらはただ受け取るだけの状態です。わちゃわちゃの間にファンはいません。つまり、わちゃわちゃを見てる時は、見せられているものの偏りがファンの誰にもないんですよね。(逆に認知されてるされてないとか何とかかんとかとかで人によって見せられるものが変わってくるのが個人の接触イベという認識でいます。)誰かひとりが特別じゃないし、言ってみればみんな特別だし、つまりタレントとの距離が全員ほぼ横並びになれる。そして、そういう形でタレントを見るのが好きだと言う方が、ハンサムのファンには、なんとなくですが多い気はしています。私の周りの話です。

そういうファンが多いことのひとつの理由として、アミューズがタレントをどのように見せてきたかというところがあるのではないかと思います。
たとえばハンサムたちのイベントではよく伝統芸能「キュンキュンさせた方が勝ち!(cv.吉村卓也)」なときめきセリフをいうコーナーというものが用意されています。これ自体は他の俳優さんのイベントでもよく見るコーナーで、特に珍しいコーナーというわけではありません。
アミューズでは、THE GAME2009の『キュンファイDEATHマッチ』という作中でも「学生に扮した俳優がときめきセリフを言うイベント」が描かれました。いまハンサムたちのイベントでこういうコーナーがあると、あっキュンファイだ!と思うくらいにはファンに浸透していると思われる作品です。
この作品の面白いところが、「ときめきセリフを言う」ことが競技化し、魅せるショーとして描かれているところかなと思います。
ときめきセリフを言われる相手役はもちろん登場しますが(どうでもいいですがホラン千秋ちゃんを見かけるたびにキュンファイ思い出します)、彼女たちはあくまで企画側が用意したキャストであり、彼らがリアルにときめきセリフを言って口説きたい恋愛対象は物語世界であってもキュンファイには登場しませんし、ましてやファンの誰かでもない。私たちファンは、そのショーを見ているだけ。
昨年のハンサムフェスティバルでは、この企画を継承したコーナーが行われた際に、メンバーの中から相手役が選ばれました。アミューズくんは、結構これをやってきます。はい。(過去には観客に向けて言ってたこともあるかもしれないですけどトリ頭なのでわすれてますし、もちろんアミュモバや彼らの個人イベントではファンに向かって言うことも普通にあります。)
つまり、基本的にはハンサムな彼"ら"の視線が私たちにのみ向けられるとき、たとえ企画だったとしても、ファン以上の意味は孕みません。それってちょっとマニアックだなと正直思います。私は完全に認知されたくない視界に入りたくないオタクなんですが、みんながみんなそうではないと思うんですよね。
だがら以前アミュモバで『妄想図書館』という企画が始まったとき、ついにアミューズもハンサムたちをメジャーな企画始めたな!という気がしたんですが、よくよくタイトルを考えてみれば『妄想』なんですよね、これ。すごい、現実で私たち個人を口説いてるわけじゃない! 私たちの妄想の中でしか彼らはファンに甘い言葉を囁いてくれない! こんな企画の中だって、私たちはファン以上でもファン以下でもない! サイコー! めっちゃ面白い企画なのでよかったら見てください。

だから、現実で、彼らがハンサムのステージ上から私たちに向ける視線や言葉は、いつだって誰にとってだって一定で一律で、それってまさに我々がファンでしかないドリフェス!じゃん!と思ったわけです。(相変わらず強引なまとめで恐縮です)

ドリフェス!は、多分、ソシャゲ好きな女子万人に受け入れられるコンテンツではないかもしれません。ファンという視点ではない、別の楽しみ方をしたい人にとっては、なかなか面白さを見いだし難いかもしれません。
だけど、いつどこから好きになった人でも、みんなが優劣なく同じ場所から応援できる安心感がある、誰にとっても優しいコンテンツなのではないかなと思います。(古参新参がどうこう認知がどうこう問題を考えると面倒くさくなるので、あくまでも、コンテンツ対ユーザーという視点だけの話にさせてください)

それに、アミューズは、ファンとタレントとの信頼関係というものを重視している会社だと個人的には思うので、ドリフェス!も、きっとそうないんじゃないかなと。故意じゃなく裏切ってしまうことはあるかもしれませんけど。
そう思うのにも、また余談に近しいエピソードがありまして。2015年、毎年恒例だったハンサムが開催されませんでした。
そのとき、アミューズは「今年はハンサムないよ! ごめんね! 来年はやるからね!」って告知を確か(記憶違いでなければ)出してくれたんですが、これってよくよく考えたらすごいことじゃないですか?
だって「やらない」告知って、それ自体が直接何かの利益に結びつくわけではありません。むしろ2015年にハンサムの誰かにはまったばかりのファンからしたら、何の話やねんって感じです。企業として、利益第一に考えれば決して必要のない告知だと思うんです。しかも来年はやるからね!なんて告知、その一年後のイベントだけをとってみれば、一年前に触れられたからって、直接チケットが買えるわけでもなし目に見える形での販促にもならないじゃないですか。
でも、アミューズは告知をした。それは、きっと、ファンの信頼を裏切らないためなんじゃないかなと思います。アミューズという事務所は、ファンがタレントを応援するのに信頼関係が必要なのだと捉えているのではないかなと。
信頼関係を築くことというのは一朝一夕でできることではないけれど、壊すのは簡単です。でも、それがどうしたら壊れてしまうのか、そして壊れてしまうことをどう認識するか、は会社のポリシーの問題だと思います。信頼関係を第一とするか、その時の利益を第一とするか、それに優劣はありません。
そもそも信頼関係を重視したときに会社にとって何の利益になるのか、それはそのときの瞬間瞬間の利益ではなく、そのタレントの先を見通した上でこれからも応援してもらうという無形の利益、ある意味投資なのかなと思います。
私は、自分の好きな役者が、そうやって、未来を大切にしてくれている・未来に投資をしてくれるような事務所に所属していてくれてよかったなと思うし、だからこそアミューズの役者が好きなのかなとも思います。アミューズに思うところももちろんありますが、でも、こういう一件があると、タレントとファンの間にある信頼関係を壊したいわけでは決してないんだろうなとは思えるんですよね。

そして、そういう事務所に所属しているハンサムたちは、その遺伝子を継いでなのか、ファンに対してとても誠実に、感謝を表現してくれます。
そもそも年末のライブは、ハンサムという名前がつく前からずっと、『ファンのための感謝祭』として、開催されています。
そして、そのライブに対して、彼らは、こちらが驚くくらいに真剣に取り組んでくれます。私たちが、推しが出てるなら何でも行くぞ!という気持ちでいたとしても、忙しい仕事の隙間を縫って、より高いクオリティを、より素晴らしいパフォーマンスを追究し、時に真剣すぎるあまりにギスギスしてしまってるんじゃないのかなと思うこともあるくらいの熱量でいてくれます。彼らが考える感謝の気持ちは、感謝の言葉を伝えるだけではなくて、人前に立つ仕事のプロフェッショナルとしてファンを満足させることにあるのだから、なのかもしれません。
推しが出てたって出てなくたって、ハンサムに行きたいと思わせてくれるような最高のエンタテインメントを作り上げてくれる。そのために、血の滲むような努力を、彼らはしてくれる。そして、私たちに客席という定位置を準備して、いつもそこで待っていてくれています。まさに実家。あたたかい。
その実家()の面子で構成されたDearDreamとKUROFUNEだから、彼らはファンのために上を目指す努力を決して怠らないし、ファンを満足させるために何でも果敢に挑戦していってくれます。派手さはないけれど、でも、そういう真面目さと誠実さは、きっと、一度とらえたファンを決して離さない。

ちょっとだけ話を戻すと、ハンサムもドリフェス!も、私たちがファンというだけである以上、彼らに対して何の責任もない以上、私たちがいつ好きになろうといつ離れてしまおうと、それはこちらの自由です。(キュンファイの中で佐藤健が言った「女の子は飽きっぽいからね」というセリフはまさに)
だから、彼らは、ファンを自分たちが提供するエンタメで満足させて、ずっと好きでいてもらうために、努力を重ねてくれます。誰かを特別扱いはしてくれないけれど、でも、私たちが愛した分だけ、それをエンタテインメントとして返してくれる。私たちは、だから、それが見たくって、毎年あの場所に帰ってくる。ドリフェス!も、きっとそういう場所を作ってくれる、いや、もうあるんですよね。彼らが、ファンミーティングをホームだって言って、そこで最高超えてるミラクルステージを見せてくれたから――というリリカルな感じでまとめとします。

つまり何が言いたいのかというと「ドリフェス!はいいぞ」ということで、結局その話をしました。とっ散らかった文章で恐縮ですが、お粗末様でした。

鈴木拡樹という役者――刀ステを観て

舞台「刀剣乱舞」ライブビューイング観てきました!
作品としても面白かったのですが、何と言っても鈴木拡樹さんのお芝居がすごかった。本当にすごかった。推したいと思ったというより、怖いほど魅せられてしまった。ので、推しではない彼のことを刀ステの印象だけで綴ってみます。
ツイッターと重複している内容もございますが、ご了承くださいませ。

そこそこ演劇は観ている方だと思っておりますが、実はなかなかご縁がなく鈴木拡樹さんのお芝居を観たのは今年の「僕のリヴァ・る」が初めてでした。
曲がりなりにも若手俳優厨なのでお名前だけは日々拝見しておりまして、「鈴木拡樹が出る舞台のチケットは激戦必至」という噂は耳にしていたので、戦々恐々としながらも何とかチケットを確保し観劇することができました。
初めて見た鈴木拡樹さんは、お芝居が上手くて、ビジュアルも爽やかで、ぱーんと場内に響き渡るように通った良い声で、何でも器用に卒なくこなす方という印象でした。(ファンの方のツイートで、後から「不器用」だと自称していると知りました。)良い役者さんだなと素人ながらに感じました。でも、多分それだけじゃないんだろうな。という確信がありました。
芝居が上手くて、ビジュアルも声もよくて、でもそれだけでは多分人を狂わせるほどの人気は出ない。そういう俳優は他にも幾人もいて、その誰もが魅力的であって、けれどもそれだけでは突出した人気にはなりえない。私が見た役者「鈴木拡樹」以上の何かを、彼は持っているのだろうと。
その何か、が、今回の刀ステで少しだけ分かったような気がしています。

鈴木拡樹さんが原作付きの、いわゆる2.5次元舞台のキャラクターを演じるということは、そのキャラクターが目の前にそのまま原作と同じ姿形で現れるということなのだと感じました。
2.5次元作品キャラクターの演じ方について、役者さんによって、そのキャラクターを憑依させるとか、自分に引き寄せるとか、様々な方法があるようですが、彼の芝居はそのどれもと違っていました。なりきっているでもなく、自分に落とし込むでもなく、舞台上に現れた彼は「三日月宗近」そのものだった。演技力がどうこうとかそういう次元じゃない。そう、別次元、その言葉が彼を観ていると浮かんできました。

三日月宗近というキャラクターは、刀剣乱舞という作品において非常に存在感のあるキャラクターです。ゲームのメインビジュアルには決まって登場し、「刀剣乱舞」とはこういう作品だと知らしめる象徴的な存在でもあります。
付け焼き刃の知識で恐縮ですが三日月宗近は、平安然とした立ち姿や煌びやかな衣装、朗らかでマイペースな性格、「じじい」と自称しながらどこか達観した言葉を紡ぐキャラクターです。天下五剣の一振りで、安定して高いステータスを持つかわり、スマートフォン移植版がリリースされるまでは滅多に錬成できない刀剣として、ユーザーをやきもきさせていたように記憶しています。彼の底知れない謎めいた言動が、オタクの考察欲を擽っていたのも、実際プレイしてみればなるほど確かにと思いました。
やや話がずれましたが、三日月宗近というキャラクターがどうあるかが、そのまま「刀剣乱舞」という作品を決めるような、そんな重要な役どころなのだと思います。

刀ミュで既に今コンテンツの舞台化を観ていたこともあって、果たして鈴木拡樹さんはどういう三日月宗近を見せてくれるのだろうか、とわくわくしながら挑んだライブビューイング。
正直、想像していたものを遥かに超えていました。

そこにあったのは「鈴木拡樹」という人間を一瞬たりとも見せない隙のない芝居でした。2.5次元舞台を観ているとき、「人間ってこんな風に動けるの⁉︎」とか「いまのこの仕草は原作通り!」とか「確かにこのキャラならこういう動きするよね」とか「この役者さんはこういう解釈してるんだな」とか、そうして原作と比較しながら、そこに生まれたズレや歪みに驚かされたり、感嘆したりという瞬間が少なからずあります。
けれども、彼は驚く暇も感嘆する暇も与えてはくれません。生々しさを一切排除したように、ゲームの中にいる三日月宗近のまま、そこにいるのです。
役作りの上で、もしかしたら彼は三日月宗近はどういうキャラクターなのかと悩んだことがあったのかもしれません。けれども舞台上に現れた彼は、その過程を一切感じさせることなく、ただひとつの答えだけを持っていました。
迷う事すら許されず、有無を言わせず、「三日月宗近」という顕現した刀を、喉元に突きつけられる緊張感がありました。彼は三日月宗近そのものとして現れて、その刃先で私たちに挑発するように肌をくすぐってくる。三日月宗近という存在は、役としてではなくキャラクターの存在そのものとして、寧ろ観客を試すように提示される。彼は、ただキャラクターとしてのみそこにいて、自ら観客のいる3次元に歩み寄るというより、私たちの方を0.5次元、彼のいる場所に引き寄せる強い力をもっていました。ここまで来い、という言葉に感覚を支配されて、気がつけば私たちの方から歩み寄っているような、そんな観劇体験でした。人を動かす芝居を、人を狂わせる芝居を、する人なんですね、こわい。

すごく漠然とした、曖昧な話ばかりしてしまっているのですが、彼の三日月宗近を観ていて、具体的にずば抜けて巧みだなと思ったのは「静」の使い方でした。
激しい殺陣でも動きに流されずに、一瞬一瞬止まってみせる。その時の表情や体の置き方が、イラストから想起される三日月宗近そのものなんですよね。
原作のファンは、三日月宗近の平面で静止した姿しか見たことがありません。三日月宗近とはこういう人、と考えた時に頭に浮かぶのは、いつも立ち絵で見ているあの姿です。
なので、舞台上で三日月宗近が動き始めると、どうしても人によって自分が頭の中で思い描いていたキャラクター像と重ならない瞬間が生まれます。立ち絵からは分からない、彼の仕草や動きは、ユーザーの想像力によって補われているので、そこが人によって異なってくるのは当たり前のことです。原作が限られた情報しかないゲームな今作ではなおさらだと思います。
けれども、動きの間に「静」の瞬間を挟み込むことで、それは少し変わってきます。
彼は意図的に止まる芝居を何度も繰り返していたように見えました。普通の人間は、普通に生きていたなら、あんな風に何かをしながら止まる瞬間はそうありません。だから、生々しく、人間らしくそのキャラクターを演じるならば、その芝居はない方が自然です。
それでも、彼は、三日月宗近が何かをするたびに、止まってみせる。その立ち姿があまりに完成されているので、きっと誰の目にも原作と重なってみえたのではないかと思います。
そして、その瞬間の分だけ、観客の頭の中で彼が原作の三日月宗近と重なる時間は長くなっていく。普通に動いている時には、それを重ね合わせる瞬間すらないかもしれない。でも、静止の時間があればあるほど、私たちは彼が三日月宗近だと感じるようになる。そのうちに、その静止と静止の合間の動きのズレや歪みも気にならなくなってくる。寧ろ、ひとつの立ち絵から次の立ち絵へと移る工程として、もっとも自然に、当然に見えてくる。

彼の止まるという芝居は、2.5次元舞台という、平面の2次元コンテンツを原作にした舞台作品には非常に効果的だなと感じましたし、同時に非常に難しい芝居でもあるなと感じました。
だって、その止まった瞬間は、動いていない分、体の置き方や衣装・ウィッグひとつひとつまで、鮮明に観客の目に映ってしまいます。誤魔化しがききません。それを、寸分違わず原作に重ね合わせる、なんて、ナマモノである舞台作品だからこそ、相当な高等技術だと思います。彼はそれを平然とやってのけていた。多分、その陰にはただならぬ努力があるのでしょうが、それを滲ませることなく。

以前2.5次元を特集していたユリイカで「鈴木拡樹は小数点以下でキャラクターを調整していく」という話を読みましたが、その通りだと思います。少しのズレがあっただけで、彼の芝居は成立しなくなる。本当に繊細なところで演劇をやっている方だなと感嘆します。

鈴木拡樹という役者は、2.5次元舞台の怪物だ、と思いました。人を狂わせる芝居をするひとなんですね。こわい。すごい。こわい。

彼のこうした芝居が中心にあると、自然と観客が0.5次元舞台上に近づいてくる。だから周りのキャラクターも、0.5次元分だけ違って見える。こうした舞台作品の中心に立つだけの力が、鈴木拡樹という役者にはある。

私は、散々このブログでも語ってきた通り、もともと生々しさを感じさせる芝居が好きです。だから必ずしもこうした舞台で彼のようにあるべきとは思いません。
でも、鈴木拡樹という役者の引力に、私は抗えない。
今回は「刀」という役どころだからこその無機質さを感じさせる芝居だったかもしれません。でも、もし彼が、私が好きな原作キャラクターを演じる機会があったとするなら、間違いなく私は過酷なチケット戦争にすすんで身を乗り出すのではないかと思います。
「鈴木拡樹」という役者がキャラクターを演じるとき、キャラクターは私たちの目の前に原作そのままの姿で現れる。それこそが、彼の熱狂的なまでの人気のひとつの要因なのかもしれないなと思う次第でございます。