推しのATMになりたい日常

推敲しない女です。

センター・壮馬の言うことは――ドリフェス!FINAL STAGEによせて

‪1日目を終えたあとのブログ(http://atm.hatenablog.jp/entry/2018/10/21/040649‬)の続きのポエム。また何か書くかもしれないけど取り急ぎの気持ちの整理です。脈絡はありません。とてもポジティブです。


ファイナルライブ2日目。
ペンライトとドリカライトの光が波打つ武道館を、端から端まで見渡している石原壮馬がいた。
誇らしげな顔つきにも見えたし、目に焼き付けているようにも見えた。それから、初めて見るその光景を、どうしてか懐かしんでいるようにも見えた。
私は、壮馬の目が好きだ。深く濃い色をした大きな目は、きらきらとした輝きを放つ光源というより、目の前にあるありのままをありのままに映す反射鏡のようだと思う。温かく見守る瞳というより、何かを見透かす瞳なんじゃないかと思う。
彼の目に、昨日の、あの瞬間の光景はどう映っていたんだろうか。彼は、あのとき、どういう気持ちだったんだろう。何を考えていたんだろう。
私には分からないけれど、武道館の客席を見渡す目が、きらきらと輝く七色のペンライトの光をありのまま反射させてくれていたなら、そして、その光の中にある私たちの気持ちを少しでも見透かしてくれていたなら、それだけで十分報われるような気がする。

そんなこんなで(?)、土曜日に書いた(と言ってももうほぼ日曜日の朝だ)メモという名のポエムを読み返しながら、もうどうしようもなく自己陶酔ぎみの文章だなと恥ずかしくなりつつも、壮馬と奏はまた私たちの物語を進めてくれたんだとぼんやり考える。

一日経った今日、ひとりになってようやくツイッターのTLに目を通す中で、壮馬の最後の言葉の話を何度も見かけた。何人ものファンが、彼の言葉に救われていて、それってすごいことだよなと純粋に感動した。
いつだってそうだ。壮馬の言葉が私たちを救ってくれた。自分で書いていながら宗教かな??と思うのだけれど(実際宗教だよ)、だから、最後の挨拶の時だって、みんな、色々な感情を抱えながらも壮馬が何を話すのかを期待……というのが正解なのかは分からないけれど、でも、待っていたんじゃないかと思う。

話は変わるけれど、物語というものに正解はない。ここに辿り着けばゴールというものもなければ、万人の感情を動かせるストーリーというものも存在しない。
アーティストやクリエイターたちは、そんな中で、自分なりの答えを見つけて、それを世の中に発信してくれている。その物語が受け入れられるかどうか、生み出しているそのときには分からない。
みぞたくが20日の最後の挨拶でも触れていた慎くんの言葉にもあるけれど、歌はもちろんすべての作品・物語は世に出た瞬間にそれを受け取った人のものになるのだと私もよく考える。だから、そこでどのように解釈をされても、生み出した側から口を出すことはできない。
だけど、作品や物語を世へ送り出す仕事をする人たちは、その、世に出たときに受け手が何を思うかをきっと想像しながら生み出している。生みの苦しみ、というものは、そこにもあるんじゃないかと思っている。

だから、みんなの視線を一身に受けながら、言葉を発したときの壮馬も、何かしらそうしたら感情を抱えていたんじゃないか、と勝手に思った。
終わりたくねえな、とも、20日の最後に壮馬は言った。壮馬が言葉を発したら、その公演は終わる。色々なものが、あのとき、彼の背中に乗っかっていたんだろう。

壮馬の、あの言葉を、色々な人が、色々な解釈で受け止めているのをじっくりと読んだ。本当に様々な考え方があって、でも、みんな、ライブを迎える前の気持ちが少しだけ違う形に変換されているように読み取れた。
それってすごいことだ。人の心を動かす。転換する。それが、どれだけ小さな変化だって、彼の言葉で何かが変わったなら、もう革命と言っていい。ニュースターエボリューションかもしれない(適当すぎる)。
多分、私も、みんなも、抱いている悲しみや喪失感がなくなるわけじゃない。だけど、壮馬は、その抱いているものを違う角度で、違う尺度で見れる鍵をくれた。泣いてもいい、でも、その涙の意味をこうやって考えてみようよ、って。
壮馬が、サイエンスホールで武道館と言ったから。壮馬が、私たちをライバルだと言ったから。昨日の夜、武道館で、壮馬が「勝ち」だと言ったから、壮馬が私たちみんなが「ドリフェス!」だと言ったから。いつだって、壮馬は私たちに新しい道筋を示してくれてきた。

明日というものは、私たちがどう抗ったって、やってきてしまうものだけど、壮馬は、そのどうしようもない明日をどう受け止めればいいかのヒントをくれた。そのヒントを受けて、明日についてどう考えるかは私たちの自由で、だけど、壮馬の言葉は間違いなく、どこへ向かえばいいか分からずに立ち止まっていた私たちの足の先に足跡を残してくれたんだ。

少しだけ個人的な解釈?の話になるけれど、私は壮馬が私たちを「ドリフェス!」だと言ってくれたのに、実はとても感激した。
その場では少し笑ってしまったけれど、あとになってぼんやりとそのことについて考えていたら、それって私たちにとって最も欲しかった言葉なんじゃないかと思えて仕方がない。
土曜日のブログで、私は「私が愛したコンテンツが終わる」と書いた。終わるんだと思っていたし、実際に、ひと段落したのは確かだと思う。
けれど、私たちが「ドリフェス!」なら、「ドリフェス!」はまだ終わらないのだ。

少し前のブログで、

私が好きな演出のひとつに「劇場の壁が取り払われ現実へと物語が続いていくエンディング」というのがある。

柿喰う客『天邪鬼』を観て――イマジネーションを武装しろ - 推しのATMになりたい日常
という話をしたことがある。
簡単に言うと、劇中で描かれた物語が現実と地続きになるように(たとえば劇中の登場人物が現実世界へと飛び込んでいく、というように)終わる演劇作品が好きだ、という話なのだけれど、私は今回壮馬の言葉に同じことを思った。

ドリフェス!と私たちの関係は、最初、アイドルとファンだった。それが、壮馬の言葉によって、ライバルになり、昨日、ついにイコールで結びついてしまった。
ファンのままなら、正直、いつだってやめようと思えばやめられる。ファンのままなら、彼らが終わらせるものを見届けることしかできない。ライバルだって、そうだ。
だけど、私たちはドリフェス!になった(大真面目に書いています)。だから、私たちが終わらせない限り、ドリフェス!は現実に寄り添ってずっと続いていく。
先ほど挙げたブログの記事で「イマジネーションで武装して現実に挑む観客」についてを話したが、まさに我々はドリフェス!という鎧を手にして明日を迎えたのだ。

まだ感情がぐちゃぐちゃでさぞかしポエムな文章を書いているだろうとスマホに向き合いながら思うけれど、ともかく、もう、1日目の明日が終わろうとしている。
七人と七人のステージをファンとして見る機会が、この先あるのかは分からない。あったらいいなと思いつつ、ないだろうとも思う。
だけど、私たちはもう彼らと同じステージ上に立っている。壮馬が、私たちをそこまで引っ張っていってしまった。ドリフェス!の次のステージは、私たちが生きるいま、現実のこの場所で、そこに彼らもずっと一緒に立ち続けてくれる。だから、私たちはメンバーの一人として、石原壮馬と天宮奏をセンターにして、これから、昨日を超えていけなきゃいけない。

劇プレの現場で、初めて見た壮馬は、じゃがいもだと散々彼はいうけれど、とても顔の整った男の子で、モギリをしていてもすぐにアミューズの俳優だと分かった。初めて見た彼の作品で、驚くぐらいに素直な芝居をする人だと思った。だけど、こんな風に彼をセンターにする日が来るなんて思ってもみなかった。
ドリフェス!が始まった当時、未成年だった彼の、大切な3年間をドリフェス!に捧げてくれたことに、そして、彼らの、私たちのセンターでい続けてくれることを、心の底から感謝している。壮馬がセンターでよかった。センターになってくれてよかった。


かくして、壮馬は、私たちを彼らの物語の中に呑み込んだ。
我らがセンターの言うことは絶対!なのだから、だから、私たちは、彼の、彼らの紡ぐ物語の中で、これからも最高の先を目指さなくちゃいけないんだ。

猫ひたのツイートのタイミングには、しこたま笑ったけど。