推しのATMになりたい日常

推敲しない女です。

『オーバーリング・ギフト』雑感――失われる物語

『オーバーリング・ギフト』を観劇してまいりました。
久々のアミューズ作品、風間由次郎くん初の演出・脚本、そして私自身今年なかなか観劇できていないので、テンション高く挑んでまいりましたので、せっかくなので考察的な話を真面目に、とりとめなく、しようと思います。
ネタバレありありなので、未観劇の方はご注意ください! 一度しか見れていないので、間違ってても許してください。相変わらず推敲はしておりません。こじつけなのはいつもです。
ちなみにパンフ未読です。書き終わったら読みます。

あらすじはこちらでどうぞ↓



脚本や演出に関して思うところはたくさんあったのですが、風間くんの創りたい物語の形が見えたのがとても興味深かったです。特に舞台装置と物語構造の妙に心惹かれたので、そこについて勝手な解釈をだらだらとお話しします。


まるで、私たちが生きる「現実」に「創造(物語)」で挑んでいくような、そういう挑戦的な意味合いを孕んだ作品だったのではないかと個人的には感じています。
私が観た中でいうと、柿喰う客の『天邪鬼』や地下空港の『タガタリススムの、的、な。』のような(詳しくはこちらの記事で書いています。)、演劇のイマジネーションの力を信じて、私たちに語りかけてくる、そういった類の熱さでしょうか。

岸谷五朗さん演出のアミューズ舞台『FROGS』をどこか彷彿とさせる雨のシーンから、作品はスタートします。オープニングがあけて、猪塚健太演じるアスターからストーリーが動き出し、舞台装置を役者が稼働させる姿を見て、私が一番最初に感じたのは「まるで絵本(物語)のページを捲るようだな」ということでした。

オーバー(リングを持つ者が住む世界)の裕福な家庭に生まれたアスターは、街の端に佇む壁の向こう側から聴こえてくる美しい歌声に心を惹かれます。壁の向こうにはどんな世界が広がっているのだろう、と未知への期待に胸を膨らませながら。
そんな彼の前に、突然壁の向こう側=ロスト(リングを持たざる者が住む世界)から、溝口琢矢くん演じるトトイが飛び出してくる。手にしたリングを狙う何者かに追われ、殺されそうになる彼を、アスターは自分のリングと引き換えに助けます。リングよりも命が大事だ、リングを外したって、俺は彼らと変わらない。そう信じて、その先に待ち受ける苛酷な未来をこれっぽっちも知らずに。

この作品における舞台装置を、仮に、絵本と見るなら、この作品は、「絵本の物語に迷い込んだ少年(読者かもしれない)のお話」と捉えることができるかもしれません。
壁の向こう側から聴こえてくる声に惹かれるアスターは物語世界に憧れる少年(現実世界の読者)であり、トトイは現実世界に迷い込んできた物語の登場人物だ、ということです。

ちょっと話が逸れます。
私は、何か専門的な知識はまるでない素人なのですが、小説や絵本などの物語には、いくつか決まりごとというか法則というかパターンというか、そういうものがありますよね。物語原型、とはまた話が違うのかな、忘れました。
今回の作品を「現実世界の人間が異世界に迷い込む」という構造だと見ると、現実世界から異世界へ、そして異世界から現実へ、行き来するには、何かしらのキーが必要となる場合が多いように思います。たとえば、何かを代償にするとか、ある入り口からしか出入りできないとか、何かしらの資格を持たねばならぬとか。
ぱっと思いついた誰でも分かりやすい例で言えば、映画『千と千尋の神隠し』でしょうか。こちらに関しては詳しい考察が鬼ほどされていると思うので、あまり深入りはしないのですが、あの作品では主人公・千尋は、異世界で生きるために、湯婆婆に名前を奪われ「千」と名付けられます。そして、本当の名前を忘れれば現実世界に戻れない。名付けという行為による支配、とも言えるのですが、それはまあ置いておいて、とにかく現実世界の名前を奪われる・失う、その世界での名前を授かる。それが、『千と千尋』の世界を生きるために必要なことであり、その奪われた現実世界での名前を忘れないことが、元の世界に戻るための条件と言えます。
『オーバーリング・ギフト』で『千と千尋』の名前に当たるのが、リングです。リングのあるなしが、その人がその世界にとってのインサイダーかアウトサイダーかを定めています。
この作品で面白いのは、オーバー(アスターが住んでいた現実世界)の方がロスト(ここでは物語世界とします)より、その世界に所属する人間として認められることが難しいというところ。リングは『生まれ持っているものではなく金銭でしか手に入れられないもの』であり、『一度外せば二度とつけることができないもの』です。つまりオーバーに存在するためのキーは、チャンスは、一度しか与えられません。生まれたばかりの赤ん坊は皆ロスト<人>(ロストには、世界と人のどちらも指し示す言葉なので<人>と表記しますね)である、と考えると、オーバーとロスト、どちらが現実世界なのか……考え始めると頭がこんがらがるので、ここではスルーさせてください。

話を戻します。
とにかく、この作品を「絵本の物語に迷い込んだ少年のお話」と見て、紐解くとまた違った面白さが見えてきます。

リングを失い、オーバーから追放されたアスターはロストへと迷い込みます。(ここで、アスターは父親から家を追い出されているのですが、その先をオーバーの別のどこかではなく、ロストへと求めるのが面白いですよね。アスターにとって、現実世界とはイコール父親支配下である、と考えると、ますますオーバーの方が異世界なのでは……と思ってしまうのですが。)
そこで、オーバーで聞き惚れていた歌声の主・サクヤ(中村百花)と出会います。ですが、アスターはあれほど焦がれていた歌を、歌うのをやめてくれとサクヤに訴えるのです。
たとえばの話ですが、私たちが、彼のように未知の世界に、たとえば何か小説や絵本の世界に、いきなり放り込まれたら、どう感じるでしょうか。ページの外から眺めている分には美しくて面白くて憧れの世界だったとしても、それがいざ目の前で現実になったとしたら、実際に、自分と同じ地平線の上で起こっている出来事だとしたら、きっと恐ろしく思えてくるんじゃないでしょうか。アスターは、彼女の歌に対して、もしかしたら同じような感情を抱いたのかもしれません。

ロストの世界に怯えながら彷徨っていたアスターは、自分が命を救った少年・トトイに助けられ、そして、トトイとその家族、父親・ミロコ(加藤潤一)、兄弟同然のルージュ(島ゆいか)から、ロストでの居場所を与えられます。けれども、アスターは、彼らに怯え、与えられた居場所を受け入れられず、またリングを二度と手にすることができない苦しみに耐えかねて、彼らの元から飛び出してしまいます。
それは、まだ、アスターが自分はオーバーの人間だという思いを捨てきれないからなのではないかなと思います。才能の入ったリングを持たざる者になってしまったと怯え、嘆くのは、未知の世界が恐ろしいのは、オーバーで生きる人々の方にこそ価値を感じ、オーバーの価値観によって物事を捉えているからでしょう。

それを変えるのが、サクヤの歌です。
トトイたちの元を飛び出して、サクヤと再会したアスターは、サクヤのような美しい歌をうたう人さえ、ここロストではリングを持たざる者だと知ります。リングを持たざる者でも、こうした力を持つことができる。リングの価値によって支配されていた彼の価値観や思想が、ここでがらりとがらりと変わります。
余談ではありますが、人が持つ価値観や思想を転換させるということは、当然簡単ではありません。でもサクヤの歌にはその力がある。それを観客にも納得させるだけの力が、中村さんの歌にはこもっていました。こういうことはミュージカルの表現でしかできないですよね。すごい!(ルージュとサクヤの恋にまつわるやり取りの話には展開は些か強引さが否めなかったのですが、中村さんの歌の説得力で納得してしまうのですよね…。)
アスターがトトイたちの元へ戻るとき、彼は廃品を集めたゴミ袋を持っていました。働く。仕事をする。それは、その世界で生きる、その世界の住民となる決意の表れだと思います。
そうして、彼はオーバーでの価値観や思想を捨て、ロスト<人>へと生まれ変わりました。「絵本の物語に迷い込んだ少年のお話」という視点から考えれば、彼は、現実世界の人間から、物語の登場人物へと転身したのです。

この後にカゲツ(富田健太郎)の話があるのですが、カゲツに関してはまだ少し考えがまとまっていないので、省略させていただきます。一気に、トトイの死まで飛びます!

……という訳で、物語の登場人物となったアスターは、カゲツを救うためにリングの密売に手を染め、そして、そこでトトイを失います。
なぜリングの売買がオーバーで禁じられているのか。リングの持つ意味とはなにか。私はまだ答えが出せていません。
ただ、そこから分かるのは「絵本の物語に迷い込んだ少年のお話」という考え方をすれば、「リングの売買はロスト(物語世界)で完結しなければいけないもの」だということです。
もし仮に、現実世界へ自由に物語の道具や出来事が持ち込めるとしたらどうなるでしょうか。現実世界と物語世界では、法律も、常識も、価値観も、思想も、何もかもが異なります。それがもし無法地帯になったとしたら、訪れるのは混沌です。たとえば「自由に人を殺してもいい」という法律が物語世界の中であったとして、それが今の日本で突然行われるようになったとしたら、日本中が戦慄するに違いありません。
つまり物語世界のことを、現実世界に持ち込むことは、基本的にはタブー、罪にあたるのです。
それは、モノやコトだけではなく、人もそうだと思います。仮にアスターがサクヤの歌にも心を動かされず、オーバーの人間のままであったとしたら、きっと彼に待ち受けるのは死だったと思います。もしかしたら、どんでん返しのような革命を起こすことだってあり得るかもしれませんが、そこで革命を起こすには、結局ロストで生きるすべを見つけなければなりません。その世界に存在することができるのは、その世界の人間だけ。そうでないままに、そこに存在することは罪なのではないでしょうか。
そう考えると、なぜトトイが殺されたのか。なぜアスターに罰が下ったのか、分かるような気がします。
アスターは、オーバーでのリングの密売に手を染め、リングを持たざる者にもかかわらず、つまりオーバーに存在するためのキーを持たずに、オーバーに何度も出向いていました。そしてトトイは、アスターというオーバーの一部であった人間の運命を大きく変えてしまった。もしかしたらカゲツの父親を救えなかったのも、カゲツの手元にある金が物語世界の住民によって生み出されたものだからであるのかもしれません。
トトイは死をもってそれを贖い、カゲツは大切な人の死によって罰せられ、アスターは大切な人を失い、更には救いたかった人を救えなかったことで罪の重さを知るのです。

ここで話は変わるのですが、もしこの作品が「絵本の物語に迷い込んだ少年のお話」だったとしたら、主人公はトトイだと個人的に思っています。
トトイというキャラクターには、主人公の原型に通ずる要素がめいっぱい盛り込まれていました。たとえばルージュ(ここではヒロインでしょうか)の思いに気付かずにいる鈍感さなんて、こういう主人公いるいる!って感じでしょう!!決めつけてすみません!!!!
何より、この世界のキャラクターは、基本的にトトイを軸にして登場しています。ミロコは「トトイ」の父親であり、ルージュは「トトイ」の家族であり、サクヤは「トトイ」の父親の友人です。こじつけっぽいことは分かっているので突かないで下さいお願いします!!

とにかく、この物語世界における主人公をトトイと見たとき、このお話は彼の死によって、幕を引いても良かったはずなのです。トトイが愛を教えてくれた、それだけでも十分完結します。実際私ももう終わりかなーなんて観ていて思いました。だけど、そうはならない。

ここで登場するのが、演出脚本を手がける風間由次郎演じるイラッシュ。市長の息子であり、ミロコとサクヤの古くの友人である彼の介入してくるのです。
それをどう見るのか。「絵本の物語に迷い込んだ少年のお話」の視点から言えば、それは物語、創造の力に怯える現実世界、読者が、その力をどうにか支配しようとしている様と見ることができます。
壁をより高く強固にして、出入りを禁じ、規制を敷く。そして、自らの支配下に置こうとする。こういう図式は、いま、まさに私たちが生きる現実世界でも、残念ながら、よく見られる光景であります。
オーバーの人間は、ロストのことを知らない。あくまで架空としてしか認識していない、のかもしれません。でも、もしそんな世界が本当にあるとしたら。その世界から、現実世界に何かを持ち込まれたとしたら。アスターがロストに初めて訪れたときのように、オーバーの人々は怯えている。もし、その物語世界の影響を受けて、現実世界で大規模なパラダイムシフトが起これば、それこそ革命です。リングが意味を持たなくなり、リングに価値がある世界だからこそ、権力を振るうことができるイラッシュの立場を考えれば、絶対に避けねばならぬ事態でしょう。
イラッシュも、昔は、ロストに憧れた少年だったのだと思います。けれども、大人になり、リングの価値を実感して、そんな過去は汚点になってしまった。それは、大人になることへの皮肉のようにも思えます。
これもまた余談ですが、そんな役を担うのが、今回初めて作品を手がけた風間くんだというのも、また面白いですよね。

壁が強化され、オーバーへの出入りができなくなる。オーバーに管理されるようになる。その決定を前に、アスターはロストを出ようと提案します。皆もそれに導かれ、彼らは、壁を破って、外の世界へと飛び出しました。
ここでようやく、冒頭で触れた私たちが生きる「現実」に「創造(物語)」で挑む試みの話になります。

この舞台は、二重構造のような仕組みになっているように見えます。
つまり、劇場を見れば、客席/舞台であり、舞台上を見ればオーバー/ロスト、という形で、劇場にまず二つの世界があり、その中のうちのひとつが二つの世界に分断されているのです。
ところが、アスターがロストの住民になってから、オーバーの様子はまったく描かれなくなります。最初は、客席/舞台(オーバー/ロスト)であったのが、いつのまにか客席/舞台(ロスト)になっている。
そう捉えたとき、彼らが壁を、ページを破り、飛び出していった先はオーバーなのか、客席、つまり私たちが生きる現実世界なのか。
そう思わせてくれるところに、私は、私たちが生きる「現実」に「創造(物語)」で挑んでくるような、熱いものを感じるのです。ロストの、物語の世界の住民たちが、彼らに怯えるオーバーの人々に、そして、それを傍観していた私たちに対峙してくる。物語は、創造は、私たちが決して支配できない、自由なものであるのだ! そういう叫びさえも私たちの耳に、直接、聞こえてくるようです。
風間くんが、物語の力を、創造の可能性を信じている、確信している人だからこそ、こうした作品が出来るのではないかなと思います。そういう意味で、私は、彼に、とても引きつけられました。


一応語りたいことは語り倒してみたのですが、ふたつほど、これもまた結論が出ていない話をします。

まず、アスターについて。
アスターは、世間知らずで夢見がちな正義漢の少年だなあと思っているのですが、彼そのものが、本当に変わったのはトトイを失った時だなと感じています。
カゲツと出会い、彼を救いたいと思った彼の行為は、シチュエーションは違えどもトトイを助けたときの彼の性質と同じところからきているように見えました。生きる世界が変わったにも拘らず、です。
それはきっと、そのときの彼には居場所があったからかなと思います。オーバーで家族を失い、生きる場所を失った彼には、絶望の淵に立たされて間もなくロストという場所が、そしてトトイたち家族が与えられます。慣れてみればオーバーよりも気が楽で居心地がよいと思えるような場所を、つまり平和を得ていたから、変わらなかった。
でも、トトイを失い、更には自分の居場所をも奪われる事態に直面して、ようやく彼は失うことへの苦しみのすべてを知ったのではないかと思います。ロストを飛び出した彼は、きっと今までのように、無鉄砲に人を救うなんてことできないかもしれない。失うことへの恐怖が、彼の中には刻まれ続けるから。だけど、それでも、アスターには人を助けたいという想いが根深く残ってくれたらいいと、私は思っています。

そして、もうひとつ。トトイがこの物語世界の主人公だったとして、の話に戻ります。
そう考えたとき、ロストとは「主人公が失われる物語」でもあるのではないかと思います。つまり、トトイは罪を犯したから罰せられたのであるとともに、「主人公だから」死なねばならない運命にあったのかもしれない。
じゃあ、物語の主人公が死んだとき、その物語は一体どうなるのでしょうか。主人公が死ぬ作品というものは、もちろん珍しいものではありません。たとえば主人公が代替わりしたり、主人公の手記や軌跡を誰かが追い続ける形で、続いていく作品も多くあります。
では、ロストは、これからどんな物語を紡いでいくんでしょうか。主人公は、物語を物語足らしめる存在です。主人公が代わるならともかく、新しい主人公が立てられないのであれば、その物語世界は、主人公の手記や軌跡を、つまり過去を追う形でしか存続できません。つまり、いま、そこにある世界は、ロストは、主人公の死とともに、トトイの死とともに、死に絶えてしまう。
そう言った意味でも、残された彼らが、いま、を生きようとする限り、ロストに居場所はないのかもしれません。だから、彼らは外へと飛び出していく。もしかしたら、その先で、彼らを主人公にした新しい物語が始まるのかもしれない。そう考えるとワクワクしますね。


言いたいことは八割がた話せたので、最後に本当に本当に個人的な感想です。
風間くんの思い描く物語を、アミューズという箱で、地球ゴージャスとRENTに通ずる表現技法で作り出したような印象の作品でした。もしかしたら、箱や表現技法が変わっていくことで、今後の彼の作品がどうなっていくのか変わるのかもしれないなあと素人ながらに思います。
トトイは、RENTのエンジェルのような存在だと勝手に感じていたので、そんな役を溝口くんが演じてくれたことが、個人的に嬉しかったです。

そんなこんなで欲望のままに終わりにします。まだあと一回は観られそうなので、そのときに何かあったら追記しようと思います。

非常に好きな、熱いテーマ性を勝手に感じてしまうような作品でした。それを表現する技法が、果たして今の形で相応しいのかどうかにはやや疑問が残りますが、それでも彼がどんな物語で私たちに挑んでくれるのか、それを期待して、次の作品も是非見てみたいと思います。