推しのATMになりたい日常

推敲しない女です。

安西慎太郎の「生々しさ」の色気について、交々――安西猿比古に踏まれたい人生だった


ということで、舞台『K』千秋楽おめでとうございます。お疲れ様でした。
皆さんもご存知の通り千秋楽ではトラブルがあり、それについて感じること思うことも色々とあったのですが、それはここでは触れずにおきます。



さて。初めての投稿ですが、突然安西慎太郎くんの話をします。

安西くんのお芝居を観るたびに、その「生々しさ」から匂い立つ色気に心を奪われます。
彼の演じるキャラクターには、いつも生々しい精神や感情と生々しい肉体とそれに伴う生々しい生活があって、それはともすれば彼が今までに出演してきた2.5次元ミュージカルと呼ばれるものの中では異物になるかもしれない……などと素人目に思ったりもしますが、私はそこから生じる色気に惹かれてやみません。

私が安西くんに出会ったのはテニミュ四天公演でした。*1
それまでにもテニミュに触れる機会はあったのですが*2、自分の意志でチケットを購入して観劇したのはあれが初めてです。

そのきっかけが舞台『FROGS』で運命の出会いを果たしてしまった松岡広大くんにあったことは今は置いておいて、とにかくそこで私は初めて安西くんのお芝居を観ました。
恥ずかしながら、私はオタクを名乗っているわりにアニメや漫画にあまり触れてきていません。なので、女子たちが愛してやまない『テニスの王子様』という作品も実は通ってきていませんでした。白石蔵ノ介というキャラクターも、名前とビジュアルは知っていましたが、その時初めてきちんと目にしました。

「なんだこのエロい腰つきで、中学生らしからぬ歌を歌ってる子は💢💢💢」

……と衝撃を受けたと記憶しています。
その時はまだ広大くん演じる遠山金太郎を追うことと世界観に着いていくのに必死で、あまり白石のことは見られていなかったのですが、それでも『エクスタシー』というとんでもない曲のことは覚えていました。
観劇を終えたあと、連れと興奮しながら会話をする中で、一言二言、白石のことにも触れたと思います。でもそれだけでした。本当は、そりゃあもうめちゃくちゃに、もうめちゃくちゃに心を奪われていたのですが、それを口に出すのが何故か躊躇われたのです。

今思えば、「松岡広大を見に行った手前」というよく分からないプライドのようなものも勿論あったのですが、何より彼に「生々しい色気」を感じたからかなと思います。
安西くんが演じる「白石蔵ノ介」は、泥と汗の匂いがするれっきとした中学生でした。*3
白石が普段どういう生活を送り、部員たちやテニスに対してどのような感情を抱き、生きてきたのか――という人生そのもの。あるいは、中学生が持つ青さや痛さ、強さや弱さ、そしてどこから生じているのかと思うほどの眩さ。弛まぬ日々の努力で鍛え上げられた体と、自信と不安が共存する心。
そういう、リアルで生々しい中学生の肉体と精神が、安西くんの演じる白石にはあったように私には見えました。
きっと彼の白石は、毎日食事をするし、眠くなればベッドに横になるし、トイレにも行くんだと思います。
当たり前の事のようだけれど、当たり前ではありません。だってアイドルはうんちしないじゃないですか。虹色のマシュマロを生むだけじゃないですか。

そんな生々しく生きる中学生の青春のほんの一コマを切り取ったのが、安西くんの白石が生きる『テニスの王子様』でした。
だからこそ、あの中学生“らしからぬ”楽曲『エクスタシー』に、私は口に出すのをはばかられるような「色気」を感じたのだと思います。
だって、中学三年生の男子が、腰をくねらせながら恍惚とした顔で「エクスタシー」とか言うんですよ。そんなの絶対エッチだけど!エッチだけど!二十半ばの女子がそれを好きだと口に出したら犯罪の匂いしかしないじゃないですか!*4

結局、私が「安西慎太郎推すわ」と公言できたのは、全国立海東京公演後に、初めて一巻から新テニまでを読んだとき、原作の白石蔵ノ介を知ったあとのことでした。
原作の白石は、生々しいというよりTHE二次元の王子様という感じの、麗しいビジュアルに突飛な設定、とてもチャーミングな性格の、フィクションの中での『普通の中学生』でした。*5
トイレは行くのかな?どっちかっていうと虹色のたこ焼き生産派かな?というイメージです。
もちろんトイレで立ちションするような「生々しさ」を持った中学生の白石くんを想像するのも私は大好きですが、それでも原作での彼はその「生々しさ」とは少しばかり別のところにあるように感じたので、「ああ、私が『白石好き』と言っても変態扱いされない素晴らしい世の中であった」と安堵したとともに、「あの『生々しさ』は安西くんが演じるからこそだったのだ」と思い知ったのです。

今まででリアルイベントでこんなに泣いた事があっただろうかというほど嗚咽しながら参加したドリライを経て、『聖☆明治座・るの祭典』、『る・コン』、『心霊探偵八雲 祈りの柩』、『ドン・ドラキュラ』、『戦国無双 関ヶ原の章』、『K 第二章』、その他イベント諸々顔を出してきましたが、その「生々しさ」の色気を特に感じたのは『八雲』と『戦国無双』でした。*6

『八雲』は作品のキーとなる人物・宇都木賢人の抱えてきた罪の重さが四肢に滲むような怒りや悲しみや憎しみや苦しみに垣間見える「生々しさ」の色気を、『戦国無双』の戦乱の世を生きてきた真田幸村の曲げられない心や曲げられない信念が宿る穢れのない肉体の「生々しさ」の色気を見たような気がします。
特に『戦国無双』は、それ自体が映像のように美しく作り込まれた「生々しさ」とは対極にあるような作品だっただけに、安西くんの「生々しさ」は際立っていたように思います。それが良いのか悪いのかという話ではありませんが。

……とはいえ、安西くんは「生々しさ」からくる色気だけではなく、ダンスや殺陣のフィクション的な、もっと無臭で無機質な華やかさや美しさも勿論持っている(と思う)ので、例えば作品のオープニングやエンディングなどの作品の本筋とは別のところにあるシーンなどでは「生々しさ」よりもそちらの印象が強いなと思います。
ただ生々しいだけでは、原作ファンでフィクションのキャラクターを知っている方にこんな風に受け入れられることもないですもんね。……私の話が矛盾してるかどうかはもう面倒なので考えません。

そうして本日千秋楽を迎えたKステ。
こちらもまた原作は少ししか齧っていませんでしたので、とりあえず絶賛見ている最中です。

実は言うと、伏見からその「生々しさ」に由来する色気はさほど感じませんでした。
もしかしたらそれは伏見という人物そのものが、舞台から汲み取ることができる限り、「生々しさ」とは少しばかり離れた存在だからかもしれません。
実際に伏見がこの世のどこかに存在したとしても、きっと周りからは「トイレとかいかなさそうだけどとにかく『ミ〜サ〜キィ〜↑』ばかり言ってる人」と思われていそうですよね。ちょっと誇張しました。
ただ、「あの人(尊)は……もうだめだ」的な台詞と「器の大きい人は嫌い」的な台詞のシーンでは、少し彼の「生々しさ」が見えたような気がします。それは伏見というキャラクターの中身が見える台詞だからこそかもしれませんが、とにかくとても興奮しました。もはや性癖だわ。

でも、それより何よりも、安西くんは伏見のことを『K』という作品においては「生々しさ」を求められない位置付けとして捉えていたのかもしれません。
安西くんなら、今以上に彼を生々しいキャラクターにする事も、きっと出来たと思います。でも伏見に求められるのは「ミ〜サ〜キィ〜↑」に固執し、彼と敵対する、記号的なキャラクター部分であって、その人間じみた「生々しさ」ではない。「生々しさ」が乱立する作品は、時として作品の本筋をぼやけさせてしまう可能性があります。キャラクターそれぞれにもちろん人生があり生活があり物語がありますが、舞台もエンタメなのでどの物語にクローズアップするかは絞られてしかるべきです。

そう考えてみると、テニミュ……での位置付けはすこし置いておくとして、『八雲』の宇都木賢人も『戦国無双』の真田幸村も、キャラクターの「生々しさ」があっていい立ち位置の役です。
――なるほど、ということは安西慎太郎は、その作品におけるキャラクターに求められている「生々しさ」を演出し、それに見合った色気をまとう事ができる役者なのかもしれませんね。(強引なまとめで恐縮です。)


……という感じで、ファンの欲目全開で「安西慎太郎が持つ『生々しさ』の色気」について結論も何もないまま色々と雑ーに語ってまいりました。
2.5次元ミュージカルは、それを演じる役者に「3を2.5にするタイプ」と「2を2.5にするタイプ」がいるというのはよく聞く話ですが、安西くんは前者かなと思います。私が知っている役者さんの中で、後者は佐藤流司くんのイメージかな。


では、最後に「生々しさ」の色気以外で安西くんの好きなところを、数多くある中から二つだけ挙げておきます。

・最後までキャラクターと一緒に生きてくれるところ
カーテンコールが終わり舞台上からハケる最後の瞬間まで、Kステでは伏見は伏見のままだった。
いつでもそう。安西くんは、どんな特別な公演でも、どんな事態が起きても、キャラクターを宿したまま最後の瞬間を迎えてくれる。挨拶の時とかは、さすがに安西慎太郎に戻るけどね。
もちろんカーテンコールで泣いちゃったり、わちゃわちゃしたりしてるのを見るのも大好きです。元々役者が好きで作品を観に来ている場合が多いから、そんなオフショットみたいなシーン見られるのなんて寧ろご褒美だよ。
だけど最後までキャラクターと共に生きてくれるというのは、どんな観客に対しても平等だということだと私は思う。私のような役者ヲタに対しても、原作ファンに対しても、何となく観に来た人に対しても、キャラクターは同じだけの時間を観客と共有してきたという意味で公平だ。変な言い方をすれば、そうして最後まで平等に接することが、ひとつの商品として礼儀正しい形のひとつなのかもしれないと思ったりもする。
それに、最後までキャラクターでいてくれることで、彼は私たちにキャラクターとお別れする充分な時間をくれる。これが見納めだと思って安心して、安西くんが演じる彼を目に焼き付けることができる。
舞台作品は、例えDVD化したって、いつの公演が撮影されるのか分からないから、いま目の前にいる彼はその瞬間しか見られないと思って私はいつも臨んでいる。だからこそ、そういう彼の姿勢はとにかくありがたいことだなと思わずにはいられない。

・ダンスの時に右目を眇めるところ
これはもうわざわざ語ることでもないけれども、どうにも欠かせないところ。
『るの祭典』作中ユニットつついづつの『WEST and EAST』が分かりやすいと思う。サビの「勝負は一瞬さ」という歌詞のところで右目をきゅっと細くするのが、本当にもうたまんないエロスだ。
ほか作品のダンスでも度々やっていたし、『戦国無双』やKステのオープニングでも目撃したので、知らなかった!という方がいらっしゃればダンスのある作品などで是非確認してみていただきたい。きっと、右目です。それもまた、色気とは別の意味でとってもエッチで好き。


はてさて収拾がつかなくなったところで、次は『武士白狐 もののふ白き虎』ですね。千秋楽は都合で見られないのですが、東京と大阪に行くので今からとても楽しみです。
そして!『ARCADIA アルカディア』!まさかこんなに早くコクーンで、しかもあのキャストで、ああいう題材で、安西慎太郎が観られる日が来るとは!わくわくが止まりませんね。

今後も彼がどんなキャラクターの、どんな人生を見せてくれるのか、どんな「生々しさ」の色気で観客を魅了してくれるのか。期待に胸を膨らませながら、私は安西慎太郎を推していくと思います。
これだから、役者ヲタはやめられないです。



改行太字などなど模索しつつ読みやすくしていきたいですね。

*1:実はその前に舞台『コーパス・クリスティ 聖骸』でお目にかかっていたようなのですが、その当時の私の目的はイエスとユダの禁断の関係()にあったのでそれはカウントせずにおきます。パンフレットを捲ったら本当に安西くんがいて吃驚しました。

*2:友人のテニモンに1stのDVDを見せてもらったり、チケットを譲ってもらって観劇に行った事もあります。その時はあくまで友人の好きなものを見たという、ただそれだけでした。もちろん面白かったですけど!

*3:念のため、他のキャストがそうではないと言いたいのではありません。2ndの白石と金太郎に関してしか考察めいた熟考はできていないです。

*4:今はもうアラサーです。

*5:それがいいとか悪いとかではありません。寧ろあれだけキャラクター数のいる作品で、一人一人が個性を放ち、輝けているのは、愛されているのは、それぞれに「生々しさ」がないからこそだと思います。

*6:ちなみにこちらの二作も不勉強のため原作の方は触れてきておりませんでした。